(それにしても……。これはいったい、どういった趣向だろう?)
ハクは風呂湯から立ちのぼる甘ったるい香りを吸い込みながら、ゆったりと目を閉じる。大人数で入るにはやや狭いが、一人湯には十分すぎる広さの湯船には、色どりさまざまな花々がまるで水槽に放たれた金魚のように優然と浮かんでいるのだった。
(今日は、確か、女湯が後だった。湯女の誰かが入れたのか──)
誰にせよなかなか洒落たことをする、と彼は感心する。湯屋の屋号をかかげる店として、冬至の柚子湯や節句の桃湯などは欠かさないが、花を投げ入れ目で楽しむ湯というのは斬新なひらめきだった。
そうしてしばし花風呂を満喫していると、ふと脱衣所で人の入ってきた気配がした。すでに従業員の就寝時間を過ぎたが、誰か風呂に入りあぶれた者がいたのかもしれない。
女でなければ良いが、とハクがそれとなく気配を探っていると、
「あの……すみません、誰か中にいるんですか?」
よく知る声が、戸の向こうから遠慮がちにたずねてきた。予期せぬ遭遇に彼が目を瞬いている間にも、おずおずと言葉をつなげる。
「あの、わたし、下働きの
困り顔が目に浮かぶようで、ハクは申し訳ないと思いつつも、喜びの笑みが満面にひろがっていくのをとめられない。
「こんな時間にご苦労さま。湯じまいなら私がするから、今日はもうお休み」
ガタッ、と戸越しに相手が盛大に足を滑らしたのが音でわかった。
「えっ!? もしかして、ハク……さまですか?」
「二人の時には、そう呼ばなくていいよ」
楽しい気持ちに浮かされてハクは明るく返す。見えない顔を想像しながら言葉をかわすひと時に、いつになく心が躍った。
相手の声も自然と打ち解けたものになる。
「もう、みんな寝てるよ。──ハクはいつもこんな遅くにお風呂に入ってるの?」
「うん。仕事終わりが遅くなりがちだからね」
「そうなんだ……。大変だね、働くって」
「そうだね。でも、今日はいい日だから、疲れも吹き飛んでしまったよ」
「なにかいいことがあったの?」
「うん。こうして、千尋と話せた」
湯煙の向こうで無邪気に笑う声が聞こえた。ハクは心地よさげに目を細めてその声に聞き入っている。
天井から水滴がひとしずく、小魚がちょんと水面へ顔を出したように湯船の中ではねた。
「千尋も入ったかな。花風呂というのは、とても気持ちがいいね」
「ほんとう? それ、わたしがやったんだよ」
「──千尋が?」
「うん。お客さまのお部屋にある花瓶の花って、毎日新しいのに変えるんだよね? だったら、入浴剤みたいにお風呂に入れてみたらどうかなって」
「いい考えだと思うよ。とてもよい香りがする」
「そうかなあ。リンさんも、殺風景にならなくていいなって言ってた」
褒められたのがよほど嬉しかったとみえる。
ハクは湯に浮かぶ花を手の内にすくいあげ、濡れた花びらに鼻先をそっと近づけた。心やすらぐ芳香はその人の存在をより近く感じさせる。微笑みを形づくる唇が、花の中にひっそりと隠れた。
「──ねえ、ハク」
しばらく途切れたのち、戸の向こうからふたたび呼びかけられた。
「やっぱりわたし、ハクがお風呂からあがるまで、ここで待ってるね」
なぜ、と聞くまでもなく続くいじらしい声。
「ハクと話したいこと、まだまだ、たくさんあるから……」