手折らば名折れ

 ちょうど霜が解ける頃だろうとの見立てだった。ただし胎児が妖との混血ゆえ、少しばかり早まる可能性もなきにしもあらずと楓は言いさした。
「うん、もっと早く生まれてくるかもしれない。この子はすごくせっかちな気がするのよね。誰かさんに似て……」
 妊婦が夫の手を借りて半身を起こしながら、くすくす笑っている。頬の色つやがすこぶる良い。その夫が身重の妻につきそう甲斐甲斐しさは忘れずに、誰がせっかちでい、と口先だけとがらした。
「早く生まれてくるなら、それに越したことはねえだろ?」
「犬夜叉さま、もうとっくに産着も用意してあるんですよね? 珊瑚さまから聞きました」
 助手をつとめるりんがたらいのぬるま湯に手ぬぐいをひたしながら、ふと水を向ける。夫婦は互いに顔を見合わせた。
「そうなの。私に黙って火鼠退治に行っちゃったのよ。まだ男の子か女の子かもわからないのに」
「どっちだろうが、ガキのうちは弱っちくて危なっかしいにきまってる──」
 りんは微笑ましく夫婦のやりとりを見守っていた。彼の手は妻の背を支えていながら、もう片方の手は終始すこやかな子を育む腹部へと添えられていた。

「今日はりんが『ねえや』なんです」
 得意げに言ってみせたその背中には、すやすやと陶人形のような赤子が眠っていた。
「殺生丸さまは『伯父さん』なんだって、かごめさまがこの子に教えてましたよ」
「……」
 彼はわずかに眉をひそめる。犬夜叉さまと同じ顔、とりんが無邪気な笑顔をちらつかせた。
 赤子を起こさぬよう気遣ってかりんの歩みはいつにも増して遅い。その一歩一歩をつぶさに背で感じ取りながら、自然と殺生丸は立ち止まる頃合いを見計らっている。野路の行く手には花盛りを迎えた桜並木が、まるで合わせ鏡を覗き見たように先々までつらなっていた。
「ほうら、お花見だよ。ねえやも伯父さまもここにいるよ。桜がきれいだね──」
 木陰に憩うりんが乳の匂いの消えぬ赤子をあやすのを、殺生丸は花などには目もくれずにじっと観ていた。伯父さま、伯父さま、としきりに繰り返すので、その赤子が弟の血を分けた甥なのだという実感がようやく真に迫ってくる。
 ふと頭上から花がひとひら名残り雪のように赤子の鼻先へ舞い落ちたのを、彼は何とはなしに指先でつまんだ。すると赤子がよもや恩を感じたわけでもあるまいが、きゃっきゃっと小猿のように手をたたいて笑いだす。それを見守るりんも陽だまりの暖かさそのものの笑顔を隠そうともしない。
「──……何がおかしい」
「うれしいんです。この子も、殺生丸さまが大好きみたいだから」
 
 女子に生まれた身であれば、いつかわが子を胸に抱いてみたい。
 村で産声が上がるたび、娘たちは来たるべき己の未来に思いを馳せた。産婆の真似事をしてきたりんも、時に産婦の姿をながめながら、生まれたての赤子を抱く自分の姿をぼんやりと重ねてみないでもなかった。
 物思いにふけりながら歩いたのが災いし、草間に落ちていた石に蹴つまずいてしまう。挫いた足をかばいながら子鹿のように立ち上がろうとしていると、不意に彼女の体がふわりと地面をはなれた。殺生丸が手ずから抱き上げたのだった。
 彼はそのまま村の方へ引き返そうとする。手当てをしてもらえというのだろうが、りんにとっては捻挫の痛みなどよりも、心の臓が破裂するかのような胸の高鳴りの方がよほどの重大事である。
(離さないで。殺生丸さま、このままりんを離さないで……)
 蝉の鳴き声にじりじりと胸を焦がされながら、りんは木の幹にしがみつくようにその首にすがっていた。子どもの頃から何も変わらぬと呆れられはしまいかと、ますます鼓動が早まった。
 ふと日照りよりも熱いものが注がれるのを感じた。殺生丸の顔が息を呑むほど間近だとりんが気づいた時には、すでにさわがしい蝉の声ははるか雲の下へ封じ込められていた──。

 天と地とに違いがあるとすれば、それは時の移ろいを目の当たりにするか否かであろう。地上から娘を摘み取った日、染みるように青ぎっていた草木は今や見違えるようにその色々を深めている。
「殺生丸さま!」
 ゆるやかな炊煙の立ち昇る人里の方から、野兎のごとく小走りに駆けてくる姿が見えた。背後には殺生丸のよく知る匂いをともなっている。
「おいっ、りん、走るなよ。危ねえだろうが」
 嫌々といった様子でついてきながらも、前を行く兄嫁の背を注意深く見守っている。腕にはあの赤子を抱いていた。言い訳がましくぼやく。
「うちのかごめがな、りんを送るついでに見せてこいだとよ……」
「見てみて、殺生丸さま。前会った時よりも大きくなりましたよね。覚えてますか? お花見に行った時のこと」
 殺生丸は赤子をじっと見下ろした。父親と同じ瞳なのを面白がっているのか、赤子もまた彼を見返しながら、あの日のように手をたたいて笑っている。それに面食らったのは弟だった。
「本当に懐いてやがる……」
「ね? きっと、この子は伯父さまのことが大好きなんですよ。犬夜叉さま」
「だからその呼び方はやめろって──」
 犬夜叉は怖気おぞけをふるったようにぴりりと犬耳を立てる。殺生丸もまた憮然とした顔をし、りんだけが鈴の鳴るような声で笑っていた。
「この子もきっと犬夜叉さまのことが大好きになりますよ」
 帰路、殺生丸の腕の中でりんがふとこぼした。
「あの半妖のことなど慕いはしまい」
「あら、この子だって立派な半妖ですよ。お嫌でしたか?」
「──知れたことを」
 目を閉じ、心通わすように額を合わせる。
 目先に咲く花を前に葛藤した。手折らば名折れだが、手折らねばきっと心が折れる。そしてその花が離さないでほしいと心に囁きかけてきた時、彼はいよいよ認めざるを得なかった。
 花の命は短い。ゆえに欲しいものは惜しみなく与え、分かち合いたいのだと。


20.02.23
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