「ごめんくださあい……」
ドアベルの鳴る音にまぎれて、声はまったく通らなかった。来たばかりだというのに、千尋はもう帰りたくてしかたがなかった。
店の中はうす暗くしんと静まり返っている。食堂のようだが、まだ開店前で客席は無人のままだ。
「あのう……あ、油屋からおつかいにきました。いつものものを三つ──じゃなかった、四つ、お願いできますか?」
早く去りたい気持ちから一気にまくし立てる。ごていねいにも指で注文の「四つ」を指し示すことを忘れない。
すると、厨房と食堂をへだてているらしいけばけばしいのれんの奥から、うす汚れた前掛けをつけた黒い影がぬっと現れた。
「……」
顔のない不気味な生き物からじっと見下ろされ、千尋は恐怖のあまり泣きべそをかきたくなる。けれど与えられた仕事をきちんとこなせなければ、もっと怖い目にあうだろう。
「あ、あの……。お代、これでいいですか……?」
握りしめていた紙幣を震えながら差しだした。異形の注目が「四本指」からもう片方の手へとうつるのが千尋にはわかった。
「……」
物言わぬ影はそのまままた、のれんの奥に引っ込んでいく。そうしておっかなびっくり待っていると、厨房から、ダンッ、ダンッ、とまな板の上で何かをぶつ切りにするような乱暴な音が聞こえ、そのたびに千尋は大袈裟なくらい驚かされた。
「……」
ほどなくして仕事を終えたらしい料理人がのれんの奥から姿を現わす。ちょうど肉屋で買い物をした時のように、小さく紙に包んであるものを四つ重ねたまま千尋へ差し出してきた。
「あ──ありがとうございます」
思わずぎくりとしたのは、受け取ったものがやけに生温かかったためだった。まるでつい今しがたまで生きていたような。
さらに度肝を抜かれたことには、目の前の影が長い半身をゆっくり折り曲げてかがんできたかと思うと、包みの上に添えてある千尋の指を舌先でベロンと舐めてきたのだった。
「──ぎゃあっ!!」
さらにガブリと何本かの指にかじりつかれ、千尋は頭の中が真っ白になった。──明らかに「食べ物」とみなされていた。黒い影が覆いかぶさってこようとするのを必死に拒絶するが、伸びてきた手にむんずと手首をつかまれてしまう──
「待て」
千尋が腰をぬかしかけた瞬間、刺すような声が背後から聞こえた。
それが鶴の一声となり、黒い影はぴたりと千尋への襲撃をやめる。
「相変わらず手癖の悪い店だ」
「……」
「誰に触れているか、わかっているのか?」
この問いかけによって、千尋の手首はようやく解放された。
「あそこは『そういう店』なんだ」
裏道をしばらく行くと、ようやくハクが口をひらいた。千尋の恐怖心が鎮まるのを見計らっていたのだろう。
「四本指の者は狙われはしないが、そうでない者は敷居をまたぐべきじゃない」
「……うん」
「──誰に行けと命じられた?」
うつむいていた千尋ははっと顔を上げた。ハクの瞳が険しい。
「言いなさい、千尋」
「い、いや」
「なぜ? あの店のことは湯屋の者なら皆知っている。だからカエルしか使いにはやらない。それを知っていてわざと千尋を危険な目にあわせた者だ。単なるいやがらせなどでは済まされないよ」
詰め寄られ、壁際に追いつめられても千尋はかたくなに首を横へ振りつづけた。
「告げ口するみたいで、いや」
「……千尋」
「やっと慣れてきたんだもん。ここでハクの手を借りたら、だめな気がする……」
ハクの口から深い溜息がこぼれた。千尋の肩へそっと額をおしつける。
「そなたの味方だと言いながら、私はこんなにも無力だ」
「そんなこと──」
「……手を見せてごらん。怪我をしただろう」
彼は千尋の手をとり、指にくっきりとついた歯形を痛ましそうにながめた。
「すぐに治してあげる。しばらくの辛抱だよ」
しばらく千尋は黙ってハクのなすがままにされていたが、やがて沈黙に耐えきれなくなった。
「ねえ、ハク。……さっきは、どうしてあの店に来てくれたの?」
ハクはひたと千尋の目を見た。考えごとでもしていたのか、緑がかった瞳の奥はうつろだった。
「なぜだろう」
「え?」
「私にもよくわからない。ただ、千尋がどこかで危ない目にあっているような気がしたんだ」
「そっか……」
「うん」
今度は千尋がぼんやりとする番だったが、ビリビリと布を裂く音で我にかえった。ハクが白い水干の袖口を裂いて包帯がわりに千尋の手に巻きつけているところだった。
「もう大丈夫だよ、ハクが治してくれたし……」
「いや。帰ったら、釜爺に看てもらおう」
「ううん、もう仕事にもどらなくちゃ。釜爺だっていそがしいでしょ? わたしもまた大湯番なんだって。大丈夫だよ、もう全然痛くないから」
ハクはようやく少しばかりの笑みを口の端にちらつかせた。
「無理をしてはいけないよ」
「うん!」
「それから、もうひとりで町に出かけないこと。いいね?」
千尋は笑って彼の鼻先に小指をたてた。ハクもまた少し笑みを深めてその指に自分の小指をからめた。
「ゆびきりげんまん……」
その日以降、日が沈み、表通りがにぎわいにつつまれる時間が訪れても、二度とあの店に明かりが灯ることはなかった──。
2020.02.09