見返り橋

 大戸の掃除はまだ終わらんのかと兄役から大目玉をくらう前に、千尋はそれを開け放っておくことにした。何事も先まわりが肝心なのだと学習するくらいには、ここの仕事にも慣れてきた頃だった。塵ひとつ見逃さないよう張り出しの床に這いつくばっていると、下働き仲間のひとりが、にわかに欄干の隙間から顔をのぞかせて言った。
「あれ、見てごらん。ハクさまじゃないか」
「ああ、本当だ。これからお出かけかねえ?」
 同輩の声につられて千尋もちらと隙見をする。ちょうど、表の玄関口から向こう岸にかかる赤い桟橋を見下ろすことができた。当の帳場役は確かに外出するところらしい。上役らしく、橋のたもとで見送りに出てきた蛙男たちに何事かことづけている様子。
「こっちに気づかないかねえ?」
「気づかないでしょうねえ」
「こっちなんか、見ちゃいないものねえ」
 つまらなそうにぼやき、めいめい欄干や床を拭き始める同輩たち。──千尋も止まった手を動かそうとした時、町の方へ歩き出しかけたハクがふと、足を止めて半身を反らした。
 その目は確かに、欄干の隙間から彼を見下ろす千尋の視線をはっきりととらえていた。
 ──気がついていたんだ、と千尋は思わず笑顔になる。
 見送りの蛙男たちは中に引き上げ、下働き仲間は拭き掃除に集中している。人の目がないせいか、ハクもまた二人きりの時にだけ見せるやさしげな微笑みを返してきた。
『行ってくるよ、千尋』
 千尋はひたいに彼の指先を感じ、耳元に、その穏やかな声を聞いたような気がした。



2020.01.23
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