ほのめく月

  

 夕刻には着くだろうと見込んでいたが、黄昏はあっという間に東から駆けてきた彼らの頭上を通り越してしまった。ふと見上げた時にはもう行く手の彼方に星が瞬いていた。けれどもあくせくと急がねばならぬ旅でもないので、心逸らすことなく、積もる話に花咲かせながらその地を目指した。
 故郷への帰還は、こたびばかりは彼の心に深い感慨をもたらした。それはまさに彼の隣に並び立つ娘、東の山村でささやかな祝言を挙げてまだ半月とおかぬ、愛しい花嫁による恩恵にほかならない。
「ねえ。──お花、お供えしてもいい?」
 道中、二人で野辺を歩きながら摘んだ花々を、かごめは幼子をあつかうような優しい所作で義母の墓前にすえる。母と差し向かうその後ろ姿をながめながら、犬夜叉は在りし日の懐かしい人を心に思い起こしていた。──その白くほっそりとした手が、いかに優しく彼の小さな頭を撫でたかを。そうしてもらうことで、幼心がどれほど満たされたかを。
「おふくろ、きっと驚くだろうな。あんなちっせえガキだったおれが、こうやって、嫁を連れてきたと知ったら……」
「そうかな。私、おかあさんは、ちゃんとわかってたような気がするけど」
 かごめははにかんで笑いながら、まるで謎かけのような言い方をする。それは犬夜叉の好奇心を刺激した。「『わかってた』?」
「いつか、大きくなった犬夜叉がこうやって、お嫁さんを連れて挨拶しにくるってこと。犬夜叉ならきっと幸せになれるって、おかあさんは知ってたんじゃないかな……?」
 こうも持ち上げられては、犬夜叉も何やらむずがゆい心地がしてくる。鼻の頭を爪の先でぽりぽり掻きながら、照れ隠しに目を伏せた。
「……そうかよ」
「うん。私は、そうだって信じてる」
 じゃれるようにそっと肩を寄せてくるかごめ。その髪の匂いが彼の鼻先を甘くかすめた。
 犬夜叉にとって何にも代えがたい一時だった。かごめの側では人並みの幸せを味わえる。幸せになっても良いのだと──生まれ落ちた時からそうなることを約束されていたのだとさえ実感できる。人からも妖からも忌憚された出生を、かごめは唯一のものとして尊重してくれる。愛し、愛される喜びを与えてくれる。
「おかあさんにもし会えるなら……」
 かごめが犬夜叉の肩に頭の重みを預けたまま、夢見心地につぶやいた。「夜が明けるまで犬夜叉の話をしたいな。二人きりで」
「……そんなに話すことがあるかよ?」
「あるわよ。一晩なんかじゃ、全然足りないくらい」
 それからかごめはしばらくの間、澄んだ瞳で古びた墓石と向き合っていた。亡き母に言葉をかけていることがわかったので、犬夜叉はただ黙って愛しい人の横顔にはらはらと清らかな月の光がそそぐのを見つめていた。
「──……犬夜叉を生んでくださって、本当にありがとうございました」
 ぽつりと声に出したのは、どうやら結びの言葉であったらしい。それは犬夜叉の心の中に小さな種のようにして撒かれ、瞬く間にさまざまな感情を芽生えさせた。
「長旅だったよね。お疲れさま、犬夜叉」
 かごめは微笑みとともに彼をねぎらう。──叶うのならば、いつとも知れぬ最期の時にもこの言葉が聞けたらいいと、柄にもなく犬夜叉は思う。
 そんなことを知る由もない彼女は、突然、彼の心ときめかすようなことを言った。
「今日は、背中流してあげるね」
「……えっ?」
「一日中背負ってくれてたから。疲れたでしょ?」
 本当はかけらほども疲労など感じていなかったが。かごめに背中を流してもらう、その素晴らしい光景を想像するや、ごくりと彼の喉が鳴った。
「いや……。まあ、でも、久しぶりに長旅だったからな──」
 ふと、誰かがすぐ側で上品な笑い声をこぼしたような気がした。犬夜叉は耳の毛をぴりりと逆立てた。空耳か、あるいは風が木々の間を吹きぬける音を聞き違えたのか、それとも──悪事をあばかれた子どもの目で頭上を仰いだ。
 まろびた月が、心なしかいつもよりずっと近く感じられるような気がした。



2020.01.18
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