夜目、遠目、闇の内
「……六道くん?」
しんと静まり返った部屋から、返ってくる声はない。けれどその奥には確かに人の気配がある。声が小さすぎて、聞こえなかったんだろうか。もう一度呼びかけようとして、桜はふと思いとどまった。
──ひょっとすると、聞こえないふりをしているのかもしれない。
悪いことを予期してしまい、にわかに気が重くなる。
ささいなことで不和が生じたのは、昨夜のこと。今朝はお互いに気まずいまま、一言も交わすことなく家を出た。喧嘩と呼ぶほど不穏なものではなかった。だから桜はもう仲直りをするつもりでいたものの、彼の方には、まだしこりが残っているのかもしれなかった。
(だって、私が帰ってきたのに、寝たふりなんて……。普段だったら、絶対にそんなことしないのに)
寝室の電気も消えていた。暗がりに目を凝らすと、毛布にこんもりくるまった姿がうっすらと見える。桜は、わざとスリッパの音をたてて近づいてみるが、彼は一向に気づいたそぶりを見せない。いよいよ桜の中で事態は深刻化する。なにしろ普段は彼女にべったりの彼である。愛されている自覚がある。だからこそ、ここまで拒絶されるとは思いもよらない桜は、まるで三途の川のほとりにひとり置き去りにされたような心細さを感じた。
「ねえ、六道くん。……まだ、怒ってるの?」
やはり返事はない。肩を落としながらも、人恋しさからは逃れられず、すり膝で彼のそばに寄る。
「怒ってるなら、ちゃんと謝るよ。謝るから……こっち向いて?」
譲歩したつもりだった。──それでも彼は応じない。
桜の中で、何かがふつりと切れた。
彼が引きかぶっている毛布をめくり、隣に身体をすべりこませる。彼の体温であたためられた布団が心地良い。その丸まった背中に、桜はぴったりと抱きついた。いつもよりも不思議と広く感じる。赤い髪の襟足に顔をうずめた。──大好き、とそのままの体勢でつぶやいた。こうすることで彼が振り向かないことは、一度たりともなかった。
「ん……?」
そしてその必殺技ともいうべき手管はいよいよ功を奏した。寝ぼけたような声をあげながら、彼がゆっくりと、彼女の方に寝返りを打った──
それと同時に、目の前が明転した。
桜の目が明かりに慣れようとまばたきをくりかえす間、少し離れたところから、わなわなと震える声が聞こえた。
「い、いったい……何が、どうなっているのかな……?」
それこそまさしく、桜が聞きたかった声である。けれど待ち焦がれた恋人の顔は、気の毒なほど引きつっているようだった。
「うーん……なんだい? まぶしいなあ……」
そして彼女がしおらしく寄り添っていたその人こそ、恋人と瓜二つの父、鯖人に他ならなかった。
間違いに気づいた桜は、そっと毛布の中から出た。
父子はなにやらもめていたが、やがて激昂した息子が問答無用で父親をあの世へ送り返したことで、寝室はあるべき静けさを取り戻した。
聞きたくないことを聞かなければという様子で、りんねがたずねてくる。
「まさかとは思うが、その……。おれとおやじを、見間違えたのか……?」
「……暗かったから」
ごめんね、と桜は言う。「会いたかったよ」──そう続けて彼を見ると、その目じりの険しさはすでに跡形もなく消え失せていた。
「おれの方こそ、その……すまん。今日一日、ずっと謝りたくて……ずっと、真宮桜のことを考えていた」
桜ははにかんだ。ちょうどりんねが、今夜はもう離さない、というように彼女の手を握りしめるところだった。二人の視線が空の布団に落ちる。
──ここから先は、仲直りの時間。
2020.01.14