家 路


「ひい、ふう、みい、よ……」
 声がとぎれた。どうやら、その先をどうしても思い出せないようである。
 今にもむずがりだしそうな顔で渡り鳥の群れを見上げる子どもに、手を繋いでいたかごめはふと微笑んで、助け船を出してやる。
「よし、じゃあ私も数えてみようかな? いつ、む、なな、や……。──あっ、ほら見て、むこうにもまだたくさんいるわ!」
「どこ、どこっ?」
 かごめの指差す方を向いて、子ウサギのようにぴょんぴょんとびはねているのを、見かねた犬夜叉がしゃがんでひょいと肩車してやる。
「ほれ。見えたか、チビ助?」
「うんっ!」
 すると、周りの子どもたちがほくほく顔で肩車されている子どもを羨望のまなざしで見上げ、にわかに騒ぎだした。
「いいな、いいなーっ!」
「犬のにいちゃん、次はおれ!」
「おれも、おれも!」
「だーっ、やかましいっ。ガキども、順番だ順番!」
 やけくそになった犬夜叉が牙を剥いて吠えれば、わあっ、と子どもたちは歓声をあげた。もうすっかり子守役が板についてしまっている。歩きだそうとすれば、いたずらっ子たちがわらわらとまとわりついてくる始末。
「こらっ、脚にひっつくな、衣をひっぱるな! ……あっ、おまえ、いま洟かみやがったな!?」
「犬夜叉ったら、人気者ねえ」
 女の子たちと一緒になって楽しそうに笑っているかごめを、犬夜叉はじとりと恨めしげに振り返り、
「かごめ、こいつらなんとかしろっ」
「ちゃんと前見て歩かないと、あぶないわよ?」
「他人事だと思って──」
 その時、子どもたちの誰かが手に持っていた犬っころ草を、笑いをこらえながら犬夜叉の顔にそうっと近づけた。不意打ちでさわさわと鼻先をくすぐられた犬夜叉は、たまらずに三度、盛大なくしゃみをする。
 子どもたちの中でどっと笑いが起こった。
「犬っころー!」
「犬っころー!」
「誰が犬っころでいっ!」
 わーっ、と子どもたちが蜘蛛の子を散らしたようにあちこちへ駆けだした。それを犬夜叉がすかさず追いかけて、ひとり残らずつかまえてくる。

「遠き山に──……」
 誰かがふと口ずさむと、ほどなくしていつもの大合唱になった。かごめが何気なく歌っていたものを、いつのまにか子どもたちが聞き覚えたのである。
 芒野原をかき分けて進みながら、犬夜叉はふと側にあるかごめの横顔に目を留めた。山の端をかすめてこぼれる夕陽に浸した唇を、囁くようにごくわずかに動かしながら、かごめは子どもたちと同じ歌を口ずさんでいる。
 先を行く子どもたちの背を追いかけるように、大小さまざまの赤蜻蛉が二人を飛び越していく。一陣の風が野辺を渡り、はるかな潮騒にも似た穂波のさざめきを立てる──すると子どもたちの合唱は波間のむこうへと遠ざかり、かごめの優しい歌声だけが浮舟のように辺りをただよいながら、犬夜叉の耳に心地よい響きを運んでくるのだった。
 彼女が抱えている籠には、さまざまな香りをまとった草花が一緒くたに放り込まれている。それらを摘み取った彼女の手指や地面に触れていた衣の裾にも香りは染みついているが、それは彼にとって、かごめ自身の匂いをさえぎるものには到底値しない。
 彼女の瞳が、彼の視線をとらえた。
 歌のひと続きのように、──犬夜叉、と愛しい声が彼の名を呼ぶ。
 彼にとって、この瞬間に勝る安息の時はない。
 子どもたちに呼び慕われる日常は、もはや空気がそこにあることと同じように当たり前のものとなりつつある。かごめは出先で寄る辺のない孤児などを見かけると、放ってはおけずに村へ連れて帰ろうとするので、村にはそうした子どもたちが暮らしているのだった。親兄弟のように懐いてくる子どもたちに囲まれる日々はにぎやかで、苦労もあるが、なかなか楽しいものだ。けれど、愛する妻とこうして向き合う一時は、やはり何にも代えがたいものだと、犬夜叉は思う。
 だから、大人げないと言われようと、夫婦水入らずで過ごす時間は欲しい。たとえほんの一時でも、かごめを独占したい。これだけは、譲れない。
 二つの影を添わせたまま、ゆっくりと歩きだす。
 渡り鳥の影が一つ、頭上を越えていった。群れからはぐれた一羽がいたらしい。
 静かにこすれ合う芒のあいだから、子どもの泣き声が聞こえる。この子も群れから置いていかれたのだろう。
 かごめはすかさず子どもに駆け寄り、その小さく丸まった背中をさすってやる。優しい言葉をひとつ、ふたつかけてやり、それから邪気のない笑顔で彼を振り返った。
「犬夜叉、肩車、してあげてくれない?」
 つかの間の一時を、犬夜叉はまだ名残惜しんでいた。かごめを奪われたことを恨めしく思ってさえいる。けれど、他ならぬかごめの頼みごとなので、
「……チビ助だからって、男がめそめそ泣くんじゃねえ」
 などと口では辛辣なことを言いながらも、足はすでに子どもの方へと動いていた。
 つい先程までの涙はどこへやら。高みに担がれた子どもは犬夜叉の頭にしがみつき、舌ったらずな声ではしゃいでいる。「落ちるなよ」と上目遣いに子どもの様子をうかがっている犬夜叉を、かたわらのかごめは感心したように見つめていた。
「そうやってると、犬夜叉、あんた本当にお父さんみたいよ」
「けっ。こんな洟たれのおやじになってたまるか……」
 すると、その言葉の響きが気に入ったのか、「おやじぃ、おやじぃ」と、犬夜叉の頭上で子どもがくりかえした。
「おやじぃ」
「誰がおまえのおやじでいっ」
 むきになる犬夜叉だったが、はたと隣で声をこぼして笑っているかごめを見ると、なにやらこそばゆいような、それでいて腑に落ちたような感覚に見舞われる。
 不思議と、これが──家族なのだという気がしてくるのだった。
 ──家族。
 ちょうど頭上の子どもが覚えたての言葉をくりかえしたように、犬夜叉もまた、心の中でそれを反芻した。
 肩に乗せた子どもが、また、「おやじぃ」と、いとけない声で呼んできた時──今度ばかりは満更でもない気分になった。
「……おまえなあ。泣きべそなんかかいてないで、置いてったやつらを見返してやったらどうだ?」
 子どもは前かがみになり、きょとんとした顔を近づけてきた。さかしまになった子どもの額と犬夜叉の額が、こつんと触れ合う。
「聞いてんのかあ? ……聞いてねえよなあ」
 




2019.11.08
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