そろそろ来るだろうか、と。
待ち遠しく思われる絶妙の頃合いに、いつもあの娘は、静寂の向こうから現れる。
「迷惑じゃなかったら、入ってもいい……?」
追い返されることなどありえないと知っているはずだが、今日も遠慮がちに目を伏せて、千尋は同じことをたずねてくる。
だからハクもいつもの微笑みを絶やさずに、
「お入り」
そう言って、彼女の手を取るのだった。
──いったい、いつからこうなったのか。
彼ら自身も、もうはっきりとは思い出せない。
彼女が夜ごと女部屋を抜け出し、その足でどこへ向かい、誰と過ごしているのかは、今やこの湯屋での公然の秘密となっている。
「……何の本を読んでるの?」
畳の上に伏せてある本を千尋が見つけた。興味深げに手にとっている。
「おもしろい?」
「どうでもいいよ。どうせ、読み終わりはしないのだから」
昨日と同じ場所に栞をはさむ。独り寝の夜長にといつかの夜に読み始めたものだが、ある夜からは、まったく先へ進む気配がない。
「──それに、もっとおもしろいことがある」
指と指を結びつける。こうしていなければ落ち着かなくなるほど、彼は千尋の感触に飢えている。
少し力をこめて引き寄せれば、期待と恐れがない交ぜになったような千尋の顔が、鼻先にぐっと近づいた。
-------------------------
文字書きワードパレット
12. 魚座「静寂」「栞」「結ぶ」
サクラ様より
2019.10.20