最終話
白い雲を突き抜けて、さらなる空の高みを目指していく。
千尋は無我夢中で竜の角にしがみついていた。振り落とされないようにと必死で、自分のいた場所をふりかえることさえしなかった。
その心はすでに地上を離れ、本来の姿を取り戻したハクとともに、水のように澄んだ夏の青空へと引き上げられていたのだった。
「ハク──ねえ、これって、夢じゃないよね?」
問いかける千尋の声が、歓喜に打ち震えていた。
今この瞬間、ようやく満願の時をむかえたというのに、こみ上げる涙で目の前がかすんでよく見えない。
それでも彼とたった二人、同じ場所で同じ光景を分かちあっているのだと思うと、その心は、さらなる高みへと跳躍してゆくようだった。
「わたし、とてもうれしい。ここに今ハクがいてくれて、本当にしあわせよ……」
数年ぶりに再会した竜は、やはり美しかった。
川底で水の流れにゆれ動く水草のように、風になびくその青い鬣に顔をうずめて、千尋は少しだけ、涙をこぼした。
みずからの背で嬉し泣きに濡れる愛しい娘を想ってか、水面の輝きをうつしとった竜の瞳は、なんとも優しげな形をして行く手を見つめている。
地上を細長い影がよぎっていく。
線路の上には電車が走っている。
二人が別れを告げた「葦沼」が水の中に浮かんでいる。
懐かしい人々が暮らす「沼の底」も斜に見える。
──しだいに太陽が、西へ傾いてきた。
竜の白い鱗が、火を透かしたような色に染まりはじめる。
「わたしたち、日が暮れるまでに間に合うかな?」
わずかな恐れも感じさせない千尋の声が、ハクの耳を撫ぜた。彼と一緒ならばという安心感が、以前この世界に迷い込んだ時にはまざまざと感じた「夜」への恐怖を、彼女の中からすっかり消し去っていた。
はるか遠くに、幻のようにひっそりとそびえ立つ、あの湯屋が見える。
「もし間に合わなかったら、またあそこで働くことになるのかな。ハクは上役で、わたしはあの時みたいに下働きで……」
(それはもう、こりごりだね)
そんなハクの声が今にも聞こえてきそうで、千尋は思わず声に出して、笑った。
竜の背に乗ってしまえば、はるかに感じられる距離さえも、あっという間に縮まっていく。
見覚えのある街並みに近づいた時、ふいに心引かれるような気がして、千尋はちらと湯屋をふりかえった。
「──?」
目の錯覚かと思い、まぶたをごしごしと擦る。
誰かが、あの赤い橋の上で手を振っていたような気がしたのだった。──まるでそこから、二人を見送るかのように。
けれどもう一度千尋が後ろを見た時には、すでにあの桟橋は、不思議な街並みの奥深くへと押し込められてしまっていた。
(誰だろう。リンさんかな、釜爺かな? それとも)
千尋は思いをめぐらせかけるが、眼下の光景を目にすると、それも瞬時にして吹き飛んでしまう。
「ハク、もう、水が……」
街はずれの石段を下りたところには草原が広がっている。その一面に、うっすらとではあるが、どこからか水が流れ出していた。
「ちゃんと帰れるかな? トンネルも、もしかしたら水浸しかもしれないよ」
けれど太陽はまだ西の方角にその光を留めていた。──するとその暮れなずむ空の下で、美しい竜は突如としてあの若者へと姿を変えたのだった。
「行こう、千尋」
千尋の手を握りしめ、言葉を発した彼は屈託なく笑う。
「一緒にこの水を渡って、向こうの世界へ帰ろう」
「まだ、間に合う?」
「うん。きっと」
──ハクがそう言うなら、きっと大丈夫なんだ。
安心を取り戻した千尋は、にっこりと笑い返した。──そうしてハクと手を繋いで、一緒に水の中を駆け出した。
駅舎にたどり着くと、水かさはすでに千尋の腰まで届いていた。水没したベンチを傍目に、千尋は存在を確かめるようにハクの手を握りしめる。
「ここを通っていこう」
ハクが三つあるトンネルのうちの一つを迷いなく指差した。千尋も、それが正しい帰り道なのだという予感がした。
手を取り合い、二人で選んだトンネルに入ってゆく。
いくらも進まないうちに、暗がりの中、不思議と水がどこかへ引いていくのがわかった。
千尋は、歩きやすくなったトンネルの出口をまっすぐに見つめながら、その先にある「これから」に思いを馳せていた。
おそらくそれは、隣を歩くハクも同じだっただろう。
そして──
「おかえりなさい、ハク」
トンネルを抜けた時、千尋は爪先立ちになり、彼をしかと抱き締めた。
ハクは一瞬不意をつかれてきょとんとした。けれどすぐに目元をやわらげ、千尋の頭と背中に手を添えて抱き寄せながら、
「──ただいま。千尋」
心の底から満ち足りた様子で、そう返すのだった。
終
(19/07/27-19/11/03)
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