第17話


 雪の魔法は、長くはもたなかった。
 夢中になって遊んでいると、時が過ぎるのはあっという間に感じられた。
 四人で作ったかまくらや雪だるまは、頭上に垂れ込めていた雪雲が青空にとけてなくなる頃には、すっかり形を崩してしまっていた。兄弟はみるみるうちに消えていくそれを名残惜しんだが、時間を止めることはできないとわかっているのだろう、楽しかった一時の思い出を記憶に焼きつけるように、手を取り合ってその最後を見届けていた。
「そろそろ、おいとましなければ」
 千尋の隣でハクが言う。
「向こうの世界へ帰るには、日没までに時計台へ戻らなければならないからね」
「また、電車に乗っていくの?」
「いや──」
 二人の会話が聞こえたらしい兄が、目を丸くした。
「ハクさま、『帰る』って……? ひょっとして、どこかに行ってしまうんですか?」
 空の高いところで、空を覆い尽くすほど巨大な竜がとどまっているかのように、帯状の白い鱗雲がゆったりと浮かんでいる。けれどそれはしだいに薄れてゆき、かわりに夏の帰還を告げる入道雲が、木々の間からもくもくと湧き上がってきた。
 ハクが魔法使いをやめて元の世界へ帰ることを知った少年は、太陽の下でとけていくかまくらを眺めていた時よりもなお、名残惜しそうな様子で彼を見つめた。
「じゃあ、もう、ハクさまには会えないんですね。寂しくなるなぁ……。もっといろんなまじないを見てみたかったのに……」
 暑さを知らないハクの白いおもてに、ふと優しい笑みがにじむ。彼は少年の肩に手を添え、もう片方の手に握り締めていた一冊の本を、少年にそっと差し出した。
「え……?」
「雪が恋しくなったら、弟さんと一緒に開いてみるといい。ほかの本はすべて処分してしまったのですが──あなたのために、これだけは残しておいたのです」
 少年はきょとんとした顔つきでハクを見、千尋を見、それから隣の弟を見下ろした。弟が好奇心をあらわにした目をその本に向けている。
「みせて、みせてっ!」
 はしゃぐ弟にも見えるように、少年はその場にしゃがんで、魔法の本をそっと開いてみせた。
 千尋も一緒になって覗きこんでみる。
 きっと魔法使いにしかわからない文字で書いてあるのだろう、残念ながら内容を理解することはできなかった。けれどその見事な挿絵が目を惹いた。ところどころに楽しげな雪国の様子が描かれている。千尋が今も着ている、ハクが魔法で出してくれた防寒着と同じものを着ている少女の絵も見つけた。
 大きなスノードームを描いた挿絵は、弟の手がそれに触れると、まるで本物のようにドームの中の雪がちらほらと降りだすしかけがほどこされていた。
「わあ……!」
 本を見つめる兄弟の目は、雪遊びの時の輝きを、ふたたび取り戻していた。

 お互いの姿が見えなくなるまで、手を振り合った。
 レモン畑から運ばれてくる爽やかな香りに包まれながら、千尋は何度か鼻をすすった。ほんのわずかな時間を一緒に過ごしただけなのに、あの兄弟との別れがこんなにも名残惜しい。
 向こうの世界で出会っていれば、また遊ぼうね、と約束することもできたのかもしれない。
「一期一会って、こういうことなのね……」
 ぽつりと呟けば、隣を歩くハクが彼女の心に寄り添うかのように、歩調をさらにゆるめた。
「あんなに喜んでもらえるとは、正直思わなかった」
 独り言のように、彼もこぼす。
「思い返してみると──良い出会いもあれば、そうでない出会いもあった。この世界では、私も良いことばかりをしてきたわけではないから」
「……ハク」
 千尋は、その神妙な横顔に目を向ける。
「私を恨んでいる者もいるだろう。命じられるがまま、取り返しのつかないことをしてしまった時もあった。我を忘れるということは……とても恐ろしい」
 ハクの両眼がまぶたの裏に隠れ、悩ましい表情になる。
「──魔法使いの真似事をして、ほんの少しばかり人助けをしたからといって、あの頃の罪滅ぼしができたとは思わない」
「でも、あの兄弟は、ハクのおかげで願いが叶ったんだよ。せっかく目の前の人を幸せにできたのに……そのことに負い目を感じたりしないで」
 千尋はその腕にすがりついてうったえかけた。薄く開かれた彼の瞳がふたたび千尋を映し出す。
あやまちは人の常、許すは神のわざ──」
 そう言うと、ハクは困ったように眉を下げて微笑んだ。
「いつの世もそうと決まっている。でも、それならば……神自身が過ちを犯した時には、いったい誰に許しを乞えばいい?」
「ほかの誰でもないよ」
 千尋の目に強い力が宿る。
「あなたを許せるのは、ハク──あなただけ。ハクが、ハクを許してあげなくちゃ、ほかの誰にも許してあげられないんだよ」
 ああ……という、感嘆とも嘆息とも取れるかすかな声がハクの唇からこぼれた。
「その通りだ。私は誰かに害をなし、一方で誰かを助け……そのどちらも確かにこの手でしたことだ。あちらにいた時も、この世界でも変わらない。神であっても、過ちはある──」
 言うなりハクは、何かを感応したかのように、突然千尋の手を取り、長い坂道を駆け上がりはじめた。
 千尋はよろめきながら彼の背中を追った。
 蝉しぐれの木々の間からきらりと日が差した時、ハクの髪のひとすじがひときわ明るく輝くのを見た。
 その揺れるたてがみの中から、木の枝のように二本のつのが力強く出現するのを見た。
 衣服に包まれた上半身が、光る鱗にびっしりと覆われていくのを見た。
 そして坂道の真上に差しかかった時──
 千尋はその頭に生えた角をつかみ、白くうち輝く竜の背に、ひと思いに飛び乗った。








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