第13話

 
 千尋は彼に自分の手を差し向けたまま、ますます目の端をやわらげた。
「いいよ。ハクがそうしていたいなら」
「──……手を離さない、という意味がわかっている?」
 その瞳についあからさまな喜色をにじませかけるハクだったが、それでもしかと念を押すように、慎重な声色できく。
「いっときの情熱でも、若気の至りでもなんでもない。私と千尋の名にかけて誓おう。きっとこれは、千尋の一生をかけた約束になる。もちろん私自身にとってもね。千尋が決して自分の決断を後悔することのないように、よく考えてから決めてほしい。私の求めに応じるのか──私と生涯をともにする覚悟があるのか」
「わたし──……」
 すぐさま千尋は返事をしかけた。ハクがふと微笑を浮かべて首を横へ振る。
「答えを聞くのは、明日まで待つことにするよ」
「でも、わたし、もう心に決めたよ」
「その決断を、今夜ひと晩だけ寝かせてみてほしい。千尋にとってとても大切な決断だから、安易にこの場で受け取るわけにはいかないんだ。けれどもし、明日になっても千尋に心変わりがないようならば、その時こそ……」
 ハクが千尋の手を自分の口もとに近づけた。唇が触れるか触れないかの距離で、かすかにこぼれた吐息が彼女の指にかかる。
「──その時こそ、この手をとって向こうの世界へ帰るのか否か、私も決断することにしよう」
 目は口ほどに物を言う。明日まで待つと言いながら、彼の瞳は正直だった。見つめ合いながら、千尋はその深い奥底にある心の中へ引きずりこまれてしまいそうな錯覚をいだいていた。──彼が望むものはわかっている。明日と言わず、今すぐにでもその手に差し出して、安心させてやりたかった。
 ──気がつくと、千尋の唇はハクの頬に触れていた。
 まばたきを忘れた彼の瞳と行き交う時、ようやく千尋は自分がしたことを思い知る。ほとんど無意識のうちに彼をなぐさめようとしていたことを。すべらかな肌の感触が、まだ唇の先に残っている。
「──ご、ごめんっ」
「……」
「わ……わたし、なにやってるんだろ。あはは……」
 千尋は逃げるように使い終えた食器を片付けはじめた。あまりにも手つきがそそっかしいので、茶碗や皿を割りそうになった。けれどその騒々しさが千尋にはせめてもの救いだった。何かで気を紛らわせていなければ、座ったまま、塑像のように固まっているハクの沈黙に耐えられそうになかった。

「はあ……」
 洗濯したパジャマを干しながら、千尋は何度とも知れぬ溜息をこぼす。
 物干しの立てられた裏庭には月の光がはらはらとさして、咲き群れる草花の曲線を美しくきわだたせている。けれど千尋は足元の光景などには気にもとめずにいる。いくら忘れようと心がけても──いやむしろそうしてつねに気にかけているからこそ、先ほどのあの「失態」はなかなか頭の中から消え去ってくれそうにないのだった。
 千尋が台所の洗い物を終えた後、ハクは風呂が沸いていることを告げたきり奥の間に引っこんでしまった。千尋にとっては顔を合わせることさえ気まずいので、なんとなく助かったような心持ちだったが。
「……」
 夜風にはたはたとなびくパジャマをもの憂く見つめていると、千尋の背後で窓の開く音がした。
 ちょうど奥の間が裏庭に面しているらしい。月明かりを室内いっぱいに取りこむように、ハクは不揃いのガラスがはめこまれたおたふく窓を開け放った。
「──月が綺麗だ」
 窓枠に頬杖をついて、独り言のようにいう。ひょっとすると自分の姿が見えていないのかもしれないと思う千尋だったが、月を見上げていたハクがひたと視線を向けてきた。途端に、長湯でのぼせたように頬が熱くなる。
 彼の目が千尋を通り越して、彼女が干したばかりの洗濯物をうちながめた。
「まるで羽衣のようだね」
「……えっ?」
「天女の羽衣。それがなければ、天女は月へ帰れない」
 千尋は思わず顔を紅潮させたまま、笑みこだる。それはどう見ても羽衣などという大層な代物ではなく、ただのパジャマでしかないからだ。けれど月光に照らしだされたハクの神妙な顔を見ると、たちまち笑いは霞のように千尋の口もとからかき消えていく。
「千尋」
 呼びかけられて、千尋はおずおずと窓に歩み寄った。
 ハクも湯浴みの後のようだった。夕食の時とは着物が変わっており、髪が少し濡れている。
 もう一度名を呼ばれ、千尋は窓枠に手をかけてつま先立ちになった。
 部屋の中を覗きこむかのような千尋の顔に、頬杖をつきながら見下ろすハクの影が降りかかる。
「やっぱり、今夜はやめておこう」
「──なに?」
「仕返し」
 ハクは笑って、人差し指をそっと千尋の唇に立てた。まるで秘めやかな内緒話をしているかのように。





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