第12話

 
「──……千尋」
 名を呼ぶことは、とても恐ろしいことだと彼は言った。その言葉通り、まるで、誰にも知られてはいけない秘密のまじないを唱えるかのように、ひそやかな呼び声にはまだ、いくばくかの畏怖がこめられているようだった。
 それでもそのひと声は、千尋の心をあふれんばかりの喜びで潤すのに、充分こと足りた。
「ああ……やっと、呼んでくれた」
「──千尋」
「もう一度……呼んでくれる?」
 千尋──と、先程よりもずっと明瞭に、ハクは彼女の名を呼んだ。祈りをこめるように組み合わせていた指をもどかしげにほどいて、そばに置かれていた千尋の手をしかとつつみこむ。
「もう二度と」
 堰を切ったように、ひた隠していたであろう思いが、ハクの澄んだ瞳の奥からほとばしった。
「呼んではいけないと思っていた。あの時のような危ない目には遭わせられないと。でも、あれから一日たりとも千尋を想わない日はなかった。呼んではいけないはずなのに。──会いたかった。会いたくて、本当にいつか気が触れてしまいそうだったよ。望んでも会えるはずがないと思うと、どんなに耐えていても、自分のそばに呼び寄せてしまいそうだった。ずっと……」
 手中におさめた千尋の手を、彼はうやうやしく自分の額にあてた。
 絞り出したその声が、かすかに震えていた。
「……ずっと魔法に逃げていた。自分が欲しいものを浅ましく求めてしまうことが恐ろしくて。他人の願いを叶えていれば、そのあいだは自分の願いごとを考えずに済むだろう? そうやって、どうにかして千尋を心の片隅に置こうとしていたんだ。──そんなことは、できるはずがないのに」
 ハクが柳のような眉を下げて苦笑する。
 その悩ましい表情を前にして、千尋は、鉤爪のついた手で心を鷲掴みにされた気分になった。ばつが悪くてつい、ハクに差し出した手を引っ込めてしまいたくなりそうだった。
「わたし、何も知らなかった。ハクはもうわたしを呼んでくれないから、トンネルは二度と通れないんだって、あきらめかけてた……」
「──あの後も、千尋はトンネルに入ったの?」
「うん。……何度も」
 いたずらを咎められることをはたと心配する子どもの顔で、千尋は白状する。
 けれどハクはそうしなかった。伏せた瞳は握り締めた千尋の手をたいそう大事なもののように見下ろしていて、千尋の言ったことに対してわずかにうなずくその動作からは、彼が千尋の発する一言一句に深く心を傾けていることが感じられた。
「すごく怖い目にも遭ったけど、わたし、この世界のことが忘れられなかったの。お父さんとお母さんは、豚になった時のことは何も覚えてなくて……。ここであったことはわたしだけが覚えていて、時々、あれは全部夢だったんじゃないかって思うこともあった。ハクのことも、なんだかとてもきれいな夢を見ていたような気がして──」
 視線がかち合った。ハクは、その至近距離でもまだ遠い、千尋の瞳の奥底まで覗きこんでみたいとでもいうように、その清らかなおもてをそっと近づけてくる。
「──きれいな夢のままで、終わらせるべきだった?」
「……それがいやだったから、何度もトンネルを通ろうとしたの」
 透き通った瞳が水面のように揺らめいて、口もとを見なくても彼が笑ったのが千尋にはわかった。溺れているわけでもないのに、胸が空気ではないものでいっぱいになって、のどには息苦しささえ感じる。
「私にも、まるで夢のような気がしていたよ。あの電車で千尋をひと目見てから、今の今までずっと……」
 ──やっぱりこの人は川なんだ、と千尋は悟る。どのようにして竜になるのかを忘れてしまった、もう自分はすっかり魔法使いになってしまったと本人が言ってはいても、その本性は決して変わることがないのだと。
「わたし、夢じゃないよ。ちゃんとここにいるよ」
「千尋の名を呼んでみて、やっとそう思えたよ」
「ねえ、ハク」
 千尋は水に潜る前のように、深く息を吸い込んだ。
「一緒に帰ろうよ。──ここであったことが全部、夢にならないように」
 ハクの深い水底にも似た瞳に、さまざまな感情が浮かんでは、沈んでいく。
 ほとんど溜息に近い声で、彼は囁きかけてきた。
「──……帰れるだろうか?」
「うん、きっと」
「……本当の姿に返ることさえできない私が?」
「どんな姿でも、ハクはハクだから」
 千尋──と、彼がふたたび呼んだ。
「竜に戻れなくなったのは、魔法のせいではない。空を飛べば、きっと否応なしにあの時のことを思い出してしまうからだ。……千尋を乗せた時のことを」
 かつては千尋が彼の手にしがみついていた。
 今は、ハクの方がたったひとつの拠り所としている。
「思い出を慰めに生きていけるほど、私は強くはなかった。本物の存在を知っていながら、求めずにもいられない。そんな私だから、千尋が一度この手をとれば、きっともう二度と離してあげられないけれど──それでもいい?」





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