第11話

 子どもは正直者だ。帰り際になって、人恋しくなった坊が泣きべそをかきはじめた。
「センとお遊びしたかったな……。ネズミになったら、いっしょにニンゲンの世界に行ける?」
「無茶をお言いでないよ。お前を向こうの世界へやったりしたら、お母さんが気も狂わんばかりに心配するだろうさ」
 甥に対する銭婆の物言いは優しく、けれどきわめて現実的だった。
「バーバにおねがいしても、ダメ?」
「ダメだね。少なくとも、お前がもっと大きくなるまでは」
「じゃあ……大きくなったら、行ってもいいの? 」
「それはお前のお母さんに聞いてみることだ。まあ、ダメだと言われても、お前が心の底から望むなら、行けないことはないだろうが──」
 伯母の茶目っ気あるウインクを受けて、坊の目が期待に輝きだした。
「ネズミにならなくても、いつかまた会えるよ。きっと」
 千尋はかがんで坊の頭を抱き寄せた。「ほんと?」と腕の中から坊が聞いてくる。
「うん。会えるって気がするよ」
 笑ってうなずいた。
「向こうにはね、わたしの妹がいるんだ。坊よりも小さいんだよ。それにすごく甘えん坊で……。いつかもしトンネルを通ることがあったら、一緒に遊んであげてくれるかな? 妹の友達になってくれる?」
「うん!」
 坊はふっくらとした頬を嬉しそうに紅潮させながら、今度はハクの脚に抱きついた。
 ハクも千尋にならったのか、それとも「沼の底」でよくそうしていたのか、坊の頭を優しく撫でてやっている。坊もハクによく懐いているようだった。親しみのこもった笑顔で彼を見上げる。
「ハク。あのね、バーバがさみしがってたよ」
「湯婆婆さまが?」
「ハクがいないとタイヘンだって。おしごとが、ちっとも終わらないんだって」
「わが妹ながら現金なもんだよ。まったく……」
 あきれたように銭婆が言うので、千尋とハクは思わず目を見合わせた。その一瞬で緊張がゆるみ、どちらからともなく、くすりと相手に笑いかける。
「一度、訪ねてきた従業員にまじないをかけたら、営業妨害だと叱られたことがありました。師匠から教わった魔法で師匠の邪魔をするつもりなら、許さないと……」
「それはまた、大げさな話だ」
「私の魔法はまだまだだ、とも言われました。半人前なのだから、むやみに他人に施そうとするな、と。魔法使いになるのか、竜のままでいるのか、どちらかを潔く決められないのなら──迷いがあるのなら魔法を使うものではない。それはとても見苦しいことだから、と」
「妹は欲深で非情だが、道理は通そうとするからねえ」
 銭婆はにやりと笑う。
「お前、うまく丸めこまれて、あの湯屋で再雇用──なんてことになりかねなかったね。そうなったら、元の木阿弥だっただろうよ」
「もしそういう提案をされたとしても、きっと丁重にお断りしたでしょう。二度と大切な名を奪われたくはありませんから」
 ハクが千尋に視線を送った。
「契約書が消えた今、私の本当の名を知るのは、この世でたった二人だけです。──もう、他の誰にも教えるつもりはありません」
 たった二人。そのうちの片方が、他でもない自分自身なのだという実感に、千尋は胸が熱くなる。
 そしておそらくハクも、同じ心の高鳴りを感じながら、千尋に相対しているのだった。
 見つめあう二人を残して──世話焼きな魔女の一行は、音のない夜半のそよ風のように「葦沼ヨシヌマ」から去っていった。
 そうして二人きりになった孤島で、彼らはしばらくの間、互いの存在という奇跡に感じ入っていた。

「おいしいね」
「うん。すごく、おいしい」
 奥の間に和やかな空気がただよう。久方ぶりの食事は、千尋にとって心満たされるひと時となった。
「いつもは一人で食べてるの?」
「うん。こうして誰かと食事をするのは、『沼の底』を出て以来かな」
「おばあちゃんの手料理、いいなあ……。わたしも食べてみたいなあ」
「銭婆さまは料理上手な方だからね。カオナシと一緒に手伝いながら、色々と教えてもらったものだよ」
 千尋は外国の童話に出てくるようなあのぬくもりの感じられる家の中で、彼らと晩餐をとる風景を思い浮かべてみた。
 千尋の微笑みがハクの表情をいっそう柔らかなものにし、その心を溶かすかのようだった。
「ずっと『沼の底』に暮らすこともできたけれど、そうしなかった。毎日が安らかなようで、なぜかいつも心の奥底では物足りなかったんだ。そのことに気づいてしまうと、居ても立ってもいられなくなってね。あてもなく電車に乗って、あの夏のことを思い出したりしていたよ」
 独り言のようにハクはつぶやいた。
「本当のことを言うと、坊が羨ましい。──あんなふうに正直に、どこかへ行きたい、誰かに会いたい、と願えることが」
「ハクは、願わないの?」
「心の中ではいつも願っていた。口に出してしまえば、どうしても叶えてしまいたくなりそうで、言えずにいたけれど……」
 ハクが両手をあわせた。その手を口元にあて、星に願いをこめるようにじっと千尋の瞳を見つめる。
「もう、叶えてしまっても、いいだろうか?」
 




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