第10話

 ドアが開いた。四人目の客が出てきて、家のそばにたたずんでいる千尋や「沼の底」の一行をちらとながめた。千尋がぺこりとお辞儀をすると、向こうも愛想のいい笑顔で会釈してくる。千尋より二つ三つ年下だろうか。弟にかまくらを作るために雪を降らせてほしい、とハクに頼んでいた客だ。
「どうもお邪魔しました。また後日、よろしくお願いします」
「足元にお気をつけて」
 千尋はあの無人駅に至るぬかるみの道のことを忠告したのだが、その心配は無用だった。四番目の客は、千尋にしがみついている坊に向かって「バイバイ」と手を振ると、孤島と道をつなぐ丸木橋の方には行かずに千尋達の前を横切っていった。島の端にある短い桟橋を下りていき、そこにつないであった小舟に乗る。電車には乗らないらしい。
「良い夜を」
 櫂を手にした四人目の客が言った。千尋は坊やカオナシと一緒に手を振って、その小舟が夜の闇に吸いこまれていくのを見送った。
「しばらく見ない間に、すっかり一丁前に魔法使いじゃないか」
 茶化すような銭婆の声に振り返る。家から出てきたハクが、白い月の光を浴びて彫像のようにそこに立っていた。彼も千尋の背中越しに四番目の客を見送っていたようだった。
「これほど早くお越しいただけるとは思いませんでした」
「そう頼みこんできたのはお前だろう? ガールフレンドのために」
「……ありがとうございます。とても助かります」
「そう言う割には、浮かない顔だねえ」
 銭婆は千尋を横目で流し見る。そうして片目をほんの一瞬だけつむったのを、千尋は見逃さなかった。
「本当にとんだあまのじゃくだ。──お前もそう思うだろう、カオナシ?」
「ア……ア……」
 同意を求められたカオナシは、ほんの少し前のめりの姿勢のまま、ハクにおずおずと近づいた。その黒い手がハクの背中をとらえ、軽く千尋の方へ押した。一、二歩分だけ二人の距離が縮まる。
「ア……」
 仮面がかすかに笑っているように見えた。
「名をなくした神同士だから、何か通じるものがあるのかもしれないねえ。この子はハクに親しみを感じているようだ」
「この人も、神さまだったんですか?」
 千尋は目を見開いてカオナシを見た。そうさ、と銭婆がうなずく。
「最初から『カオナシ』だったわけじゃない。今はこんなふうに顔も名前も失くしてしまっているが、きっと長い間この世界をさまよい歩くうちに、本当の自分を思い出せなくなってしまっただけなんだ。神にしろ人にしろ魔女にしろ、生まれた時から顔も名前もないモノなんてどこにもいないだろう?」
 千尋はカオナシとハクを見比べてみる。二人が似た者同士だと言われると、突拍子もないことのようだが、不思議と心のどこかでしっくりきてもいた。
「我を失った神の行く末は哀れなものさ。自分が何者かもわからず、さまざまなものを奪ったり、汚したり、壊したりして災厄をまきちらすんだ。千尋、お前も見たことがあるだろう?」
「えっ、何をですか……?」
「掃き溜めさ。──あの湯屋の底にある、『穴』だよ」
 千尋は首の後ろをさかしまに撫でられたように、ざわざわと鳥肌が立つのを感じた。
 塔の天辺の部屋に駆け込んだ時のことを覚えている。傷ついた竜が棄てられそうになっていた「穴」。深い底には得体の知れない無数の黒い生き物が、闇そのもののようにうごめいていた。
「あそこに落ちたが最後、二度と出てくることはできないだろう。我を忘れたまま、ほかの有象無象うぞうむぞうとまじりあい、本当に何者でもない存在に成りはててしまう」
「でも、わたし達、ちゃんと出てこれました。ハクがわたしを背中に乗せて、出口を見つけてくれたから……。ハクは、竜だから……」
 千尋はハクを見上げた。
 けれど、その懐かしさをこめた眼差しから逃れるかのように、ハクは目を逸らしてしまう。
「私は……──もう竜になれないんだ」
「……え?」
「竜になる方法がわからなくなってしまった。……もう長いことこういう暮らしをしているから」
 言葉が見つからず、千尋は口を噤んだ。
 ハクがわざわざ電車に乗って移動していた理由を彼女は知った。はじめのうちはあれほど千尋を帰したがっていたのに、だからといってすぐに時計台の駅へ引き返すこともせず、また、やたらと銭婆に千尋を任せようとしていたわけも。
「失望させてしまった? 昔の私ではなくて」
 千尋は首を横へ振る。それでもハクはそうと信じているようだった。
「竜にはなれないけれど、私は魔法使いだから、きっと大抵の願いは叶えてあげられるよ。──早く人間の世界へ帰りたいと望むなら、今すぐにそうしてあげよう」
「わたしの願いは、魔法の力じゃ叶えられない。さっき言ったよね? ハクにしか叶えられないことだって。……ううん、そうじゃない」
 千尋はまたこうべを振った。その口もとがほころんでいる。
「わたしにしか、叶えられないのかも。わたしが望んで、わたしが口にしないと、叶わないんだもんね」
「……」
「おばあちゃん」
 千尋は銭婆の手をとった。
「あと少し、あと一日でいいからここにいさせてください。わたし、まだ帰りたくないんです」
「──お前がそう望むなら」
 魔女の声は深い慈しみに満ちていた。





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