第9話

 ドアを開けた時、はじめはそこに誰もいないような気がした。
 けれど、誰かがいきなり千尋の腰にひしと抱き着いてきて、
「──セン!」
 まだ幼さの残る声で、それはそれは嬉しそうに呼ぶのだった。
「覚えてる? 忘れてなんかないよね? ……ずっと会いたかった!」
 千尋のおなかにぐりぐりと顔を埋めているので、声がくぐもっている。どうやらかなりの甘えん坊のようだ。──この子は誰だろう?とまごついていた千尋にも、ようやく見当がついてきた。
「今日はネズミにならないの?」
 冗談めかして言うと、子どもがパッと顔を上げた。笑顔になんとも言えない愛嬌のある、丸々とふとった可愛らしい少年だった。
「あんまり甘やかしちゃ本人のためにならないなんて、あたしも妹に偉そうに言えた義理じゃないねえ。甥っ子の頼みごとには、滅法弱いんだから」
 フフ、と笑いながら歩み寄ってくるのは、千尋を彼のもとへ導いてくれた「沼の底」の魔女だ。その隣には仮面の黒い影が、心なしか仮面の表情を和ませながら、千尋を見つめている。
「ア……ア……」
「お前も会えて嬉しいだろう? 千尋のことをずっと気にかけていたからねえ」
 銭婆が宙に手をかざした。その手に、千尋が台所に置いていたはずのカンテラが出現する。持ち主のもとに戻って喜んでいるのか、ガラスの中でまぶしく発光する灯火が、ひとりでにゆらゆらと揺れだした。
「それ、貸していただいてありがとうございました。おかげでハクを見つけることができました」
「この子は道案内をするのが役目だからね。ちゃんと来るべき道がわかって、良かったよ」
 水晶玉にも似た魔女の大きな瞳は、まるで千尋の心の奥底まで見透かすかのようだった。
「百聞は一見にしかずと言うだろう。──お前のボーイフレンドを、見たかい?」
 千尋は神妙な顔でうなずいた。ぴったりと抱き着いてくる坊の頭を、甘えたがりの妹によくそうするように、優しく撫でてやる。
「見ました。……今も、見ています。それでわたしに何ができるのかは、まだよくわからないけれど」
「そうかい」
 銭婆の視線が千尋を通り越し、月明かりでいっそうほの白く浮かび上がる孤島の家へと向けられた。
「こんな寂れた場所にひとりで暮らしていたって、面白みのかけらもないだろうに。困った子だよ、まるで言うことを聞かない家出息子をもったような気分だ」
 千尋はちょっとだけ笑った。
「でも、お客さんは来るみたいです。今日だけで四人も来ました。みんな、ハクの魔法を頼りにしてるみたい……」
「それで、あの子はまじないの大盤振る舞いなんだろう?」
「……頼まれたら断れないって、ハクは言ってました」
「あの子が言いそうなことだ」
 銭婆は小さく嘆息した。
「──魔法というのはね。あれで案外、無力なものなんだ」
 千尋は目を伏せる。
「使えたら、便利そうですけど……」
「便利だろうが、決して満足はしない。願いごとをひとつ叶えればまた新たな願いが出てくる。そうやってますます高望みしてしまう。無尽蔵にまじないを使ううちに、自分の本当の願いを忘れてしまうんだ。──魔法の力というのはそういうものさ。魔女のあたしが言うんだから、間違いない」
「でも、ハクは」
 千尋の脳裏には、まじないに没頭するハクの横顔が浮かんでいた。──まるで目の前の魔法に自分のすべてを注ぎ込むかのような、何もかもを賭けるかのような真剣な面差しだった。
「ハクは……自分のための魔法を使わないんです。まじないをかけるのは、きっとほかの誰かのためだけなんです。だからそうやって、他人の願いごとは一生懸命に叶えてあげようとするんです。それがどんなに難しくて、到底叶いそうもないことだとしても。──ハクは優しい人だから、それでいいのかもしれません。誰かが自分の魔法で喜んでくれるなら、それだけで充分なのかもしれない。でも、だったら、ハクのためのまじないは……ハクの本当の願いは……──」
「──誰が叶えてやるのか」
 とぎれた言葉を継いだのは、優しく目を細めている銭婆だった。
「そこまで気がついたのなら、お前にはもう、わかっていそうなものだけれどね」
「……かもしれません」
 千尋は胸にそっと手を当てた。そして「沼の底」からの訪問者達にあたたかく見守られながら、自分の心が導きだした答えを口にした。
「ハクの願いを叶えてあげられるのは……きっと、魔法でも、ほかの誰でもなくて……──」





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