第8話

「──さっきのお客さんは、よくここに来るの?」
 小鍋の蓋を閉じながら、千尋は聞きたくてうずうずしていたことをたずねてみた。
 流し台に立っているハクの横顔に、磨りガラス越しの白く霞むような日光が差している。流水で野菜を洗う手もとに目を落としたまま、彼はこたえた。
「時々お見えになるんだ。でも、あの人だけじゃないよ」
「ハクはああいうお客さんに、まじないをかけてあげるの?」
「うん」
 彼が蛇口をひねり、水の音が止まった。
「頼まれると断れなくてね。どういう依頼でも、引き受けてしまう」
「どういう依頼でも……?」
 千尋が彼の言葉に違和感を覚えた時、──チリン、とどこかで涼やかな鈴の音が鳴った。
 風鈴かな、と千尋は思ったが、どうやら呼鈴らしい。手ぬぐいで濡れた手を拭きながら、ハクが廊下に顔を出す。
「お客さまがいらしたみたいだ。時間がかかるかもしれないから、奥の間で先に食べているといいよ」
「ううん。ハクの用事が終わるまで待ってる」
「でも、いつまでかかるかわからないよ?」
「いいの。せっかく一緒に作ったんだもん、ハクと一緒に食べたい」
 振り返ったハクの表情を目の当たりにして、千尋は、つい今しがたまでそんなことはなかったのに、にわかにこそばゆい気持ちが湧き上がってくる。──まるでこのうえなくいじらしいものを見るような、ひどく心くすぐられているような、その甘く柔らかな顔つき。
「──……行ってくるよ」
 言い置く声さえも耳の奥に残るほど優しげで、千尋はしばらく彼が立っていた場所から目を離せずにいた。まるでそこに彼の残影を見ているかのように──。

 奥の間の時計が、ボーン、と鳴る。
 時計の針はちょうど六時を指している。もはや、お昼をゆうに越えて夕飯時だ。
 最初の客がまだいるうちから、次の客が訪ねてきた。その客の次にも新たな訪問者がやってきて、今、ハクが客間で応対しているのは、本日数えて四人目の来客だった。
 ここまでくれば千尋ももうすっかり慣れたもので、暇つぶしに菓子を作り、茶と一緒に客間へ運んだり、玄関先で客を迎えて見送ったりと、あれこれ世話を焼いている。奥でじっとしているよりもハクの様子がよくわかるから、そうしている方がよかった。
「ひょっとすると、ハクどのの奥さまかしら? 随分とお若くて可愛らしい方ですわネ」
 三人目の客にそう言われた時には、千尋は思わずハクと顔を見合わせてしまった。ハクがまたあのとろけるような微笑みを口もとに浮かべるのを見て、思わず盆で顔を隠してしまいたくなった。
「しばしの同居人ですよ。可愛いでしょう?」
「あら、お惚気のろけかしら? ハクどのもお若いのネ。ホホホ……」
 訪問者達は、さまざまなまじないを求めて彼のもとへやってきた。
 ──手に入らない珍味をどうしても取り寄せたい。
 ──飼っている猫に言葉を喋らせてみたい。
 ──六十年前に失くした手紙を見つけてほしい。
 ──弟にかまくらを作ってやりたいから、雪を降らせてほしい。
 千尋には無理難題のように思える願いごとも、ハクは一つとして断ることをしなかった。たとえ実現させることが困難であっても、何かしらの形で依頼者の期待に応えようとしているようだった。
 彼は魔法のことになると、まるで取り憑かれたように没頭した。まじないを探すためにひとたび本をめくり出すと、目の前の依頼者の存在さえ忘れてしまうほどのめり込んでしまうのだった。
 そうした誠実でひたむきな姿が、千尋にとっては大変好ましく──けれども同時に、なにやら底知れぬ不安を駆り立てられもした。
 ──ハクはなぜ、それほどまでに深く、魔法に傾倒しているのだろう。
『竜はみな優しいよ。優しくて愚かだ』
『頼まれると断れなくてね。どういう依頼でも、引き受けてしまう』
 奥の間に座ってひたすら考え込んでいると、廊下でまた、チリンと呼鈴が鳴った。はじめは気がつかなかった。そしてその次も。三度目の音でようやく千尋は腰を上げ、玄関に向かう。
 通り過ぎざま、客間の襖が開いて、中からハクが顔を出した。
「お迎えが来たようだね」
「……えっ?」
「出てみればわかるよ」
 そう言うと、あの深く緑がかった瞳を心もとなく揺らしながら、千尋をじっと見つめてくる。
 カンテラの幻が見せた、あの寂しげな顔がそこにあった。千尋は外に誰が待っているかを悟った。ドアを開けてその人を迎えなければいけないのに、名残惜しそうなその瞳から目が離せない。
「ハク」
 千尋は思わず歩み寄り、所在なく体の横に落とされたその手を、そっと握り締めていた。
 幻の中の彼はつかみどころがなかったけれど、今は確かな実感がある。目の前のハクは、その心で、その瞳で、千尋のことを呼んでいた。そして彼が呼んでくれるのなら、千尋は応えるつもりでいた。──いつも、何度でも。
「少しだけ、外に出てくるね」
 ハクは伏し目になって、頷いた。
「無事に帰れるように、まじないをかけてあげる」
「ううん。──魔法よりも、わたし、ハクに叶えてもらいたいことがある」
「私にできること?」
「ハクにしか、できないことだよ」
 あとで教えるね、と、瞳を輝かせながら千尋は言った。
 
 


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