第6話
ぬかるむ道の終わりには、長い丸木橋が架かっていた。それを渡れば、沼の中にぽつんと浮かんでいるような孤島がある。
いやが応にも目にとまる、白い漆喰壁の小さな一軒家が、どうやらその島で唯一の建築物のようだった。
「ここは、どこ?」
先程のほとぼりもようやく冷め、千尋は今度こそ聞くべきことを聞くことができた。
立ち止まったハクが、ふと視線を向けた先をたどる。地面に杭で打ちつけてある道案内らしき看板には、かすれた文字で「葦沼」と書かれてあった。
「『ヨシヌマ』……?」
千尋が声に出して読みあげると、ハクは振り返った。千尋の顔と看板とを、交互に見比べる。
「私はずっと、『アシヌマ』と読んでいたよ。──でも、確かにそうとも読めるのかもしれないな」
思いがけず新しいことを聞いた、というような口ぶりで言う。千尋は思わず笑顔になった。
「『良し』でも『悪し』でもどっちでもいいなら、前向きな気持ちになれるほうがいいんじゃないかな? なんだか、良いことが起こりそうな気もするし」
「そうだろうか」
「そうだよ、きっと」
ハクは外套のポケットから鍵を取りだし、あの白壁の民家の鍵穴に差し込んだ。ガチャリと音が鳴り、彼の手が木製の分厚いドアを押し開ける。
興味をかきたてられた千尋はつま先立ちになり、彼の肩越しにその中を覗きこんだ。
「お邪魔してもいいのかな……?」
「私の家だから」
入って、というようにハクが開いたドアに背中を寄せた。
千尋はカンテラを顔の高さまでかかげ、ドアの向こうにそっとつま先を差し入れた。
外見はいかにも洋風の家だが、ひとたび中に入ると、まるで昔ながらの日本家屋のような設えだった。玄関には上がり框がもうけられ、間仕切りには障子が立てつけられ、床には畳がはめこまれている。囲炉裏もあった。客間らしい部屋には絨毯が敷かれ、木製のテーブルと椅子が置いてある。
「おいで」
ケープつきのコートを脱ぎ、椅子の背もたれにかけながらハクが促した。
「ここで、少し待っていて」
「うん」
千尋はテーブルの上にカンテラを置いた。勧められた向かいの椅子に腰かけると、ハクは帽子をとって客間をさっと出て行ってしまう。
奥の間で、おそらく時計が、ボーンと鳴った。
壁にかけられた古めかしいカレンダーをながめながら、千尋は彼についての考えをめぐらせた。
──あの子はまだここにいるよ。そして我を忘れてしまっている。このままでは、よくない。
妹の口を借りて「沼の底」の魔女が伝えてきたこと。ハクが我を忘れてしまっているとは、一体どういうことなのか。そしてそれによって、何が起きてしまうかもしれないのか。──彼を助けるために、千尋自身にできることは、何か。
「長いあいだ電車に乗っていて、疲れただろう?」
千尋の鼻先に、花のように芳しく心安らぐ香りがただよってきた。ほのかに湯気をくゆらせた飲み物が目の前に出されている。ハクが用意してくれたらしい。ハーブティーかな、と思いながら千尋はカップを手にとり、ひと口すすった。はちみつのように甘く、薄荷のようにさわやかなお茶だった。喉をつたい落ちていくごとに、体の緊張が少しずつほぐれていくのがわかった。
「これからのことだけれど……」
カップの縁を指先でそっと撫でながら、ハクは静かに切りだした。
「……一緒に来てしまったものは仕方がない。ひとまず今夜は、ここでゆっくり休むといい。夜が明けたら銭婆さまに連絡をとってみよう。早く向こうへ帰してもらえるように、私から頼んであげる。だから、」
「ねえ、ハク」
千尋は茶器をテーブルに置いて、真っ直ぐに彼を見つめた。
「──どうして、わたしの名を呼んでくれないの?」
ハクの瞳がにわかに揺らいだ。思ってもみなかった問いかけなのだろう。
「前は、みんながわたしを別の名前で呼んでも、ハクだけはいつも本当の名を呼んでくれた。なのに今は、電車で会ってから、まだ一度も呼んでくれてないよね。──もしかして、もうわたしの名前なんて忘れちゃった?」
「まさか」
電車で交わしたやりとりと似たような会話だった。けれど今回のハクは、感情を抑えることが難しくなったのか、先程よりも語気を強めて言った。
「忘れるわけがない。絶対に。……ただ、呼ばないようにしているだけだ」
「どうして?」
「どうして……? それは、とても恐ろしいことからだよ」
「……恐ろしいこと? ハクは、何をこわがっているの?」
「呼んでしまえば」
ハクはなかば自棄になったように、かすれた声を上げた。
「──きっと、求めてしまうから」
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