第5話

 そこから先の旅は、当然、千尋の知らない道行きとなった。
 夜の闇はいっそう深く、半分に割れたような形の月が遠くの空にぽつんと浮かんでいる。暗がりの中には町や民家の灯りらしきものは見当たらず、走っても走っても、雑草で荒れた湿地が延々とつづくばかりだ。
 代わり映えのしない外の景色にはもうとっくに飽きていた千尋だったが、かといってほかにすることもない。隣のハクは相変わらずかたくなに口を噤んだままで、たとえ話しかけたとしても間をもたせる自信がなかった。
 ただ、彼は無言をつらぬいているからこそ──むしろその沈黙によって、おさえがたい感情の揺らぎをまざまざと千尋に知らしめているのだった。
 ──こんな風についていくのは、ハクにとってはすごく迷惑なことだったかもしれない。心配してくれているんだってことも、ちゃんとわかってる。……でも、それでもわたしは、どうしてもハクの「今」が知りたい。
 ハクにさからい、彼の心の平穏を乱していることに申し訳なさを感じながらも、千尋は自分の選択を後悔してはいなかった。むしろ、もしあのままハクの言葉にしたがい、「沼の底」でこの電車を降りて、彼をたった一人ここに残していたら──それから先はもう二度と会うことはなかったかもしれない、という予感めいた感傷さえおぼえてしまうのだった。
 千尋は、ひざの上のカンテラをそっとかき抱く。
 いったいどれほどのあいだ電車に揺られているのか、時計もないので確かめようもないけれど、かつてないほどの長旅であることは確かだった。夜もとうに更けて、千尋の目蓋はまばたきさえ億劫に感じられるほど重くなりはじめていた。
 カンテラからもれる淡い光をぼうっと見つめながら、千尋は、いつか竜になったハクの背に乗り、夜空を飛んだ時のことを思い出す。頬をなでる風のすがすがしさ。胸に熱くこみ上げる感動。彼女を見つめるハクの瞳の美しいきらめき──永遠に忘れられない、あの夏の夜。
 懐かしい夢をただよいながら、千尋は隣のハクの肩に、かしいでいた頭をことんともたれてしまった。
 ハクは帽子の陰で目をみはり、すぐに彼女の方へ顔を向けた。反射的に名を呼びかけたのか、かすかに開いたその唇が、今にも千尋の頭に触れそうな距離でぴたりと止まる。
「──……ハク」
 夢とうつつのはざまで、ほかの誰にも聞こえぬ声で千尋がつぶやいた。深い安らぎと、喜びに満ちた寝言だった。
 ハクは、向かいの窓ガラスに映る千尋の寝顔を眺めやり、長い睫毛をそっと伏せた。
 ひた隠そうとするその顔に浮かぶのは、気を許した者だけに向けるおだやかな微笑みのようであり──それでいて、心の中にどうにもならない葛藤をかかえた悩ましさのようでもある。まるでそのまま時を止め、ただいつまでも見守っていたいと思っているような。けれども同時に、あとほんの少し、髪の毛ひとすじほどの距離を、ひと思いに──
「……」
 彼は唇をぎゅっとひきしめ、反対側へ顔を背けた。
 このまま永遠に出口のない夜の中を走りつづけるかのようだった電車が、ふたたび速度を落としはじめる。
 自動ドアの開く音で千尋ははっと目を覚まし、首をまっすぐに立てなおした。その時になってようやく自分がまどろんでいたことに気づいた。ひょっとすると寝ぼけてハクに寄りかかっていたかも──という自省に駆られ、おずおずと隣を見れば、ちょうど彼は座席から立ち上がるところである。
「……待って!」
 置いて行かれないように、千尋はハクのあとにつづいて電車を降りた。
 その駅もまた無人で、駅名表示の看板さえ見当たらなかった。たった一本立っている街灯はとうに壊れているのか、その役目を果たしていない。ひびの入った花崗岩のプラットホームを下りると、ほのかな月の明かりに照らされて、ゆるやかな下り道が蛇のようにうねりながらつづいているのが見える。周りは雑草が生い茂る沼地にかこまれ、水の濁ったようなにおいがした。
「わっ」
 あたりに気を取られていたため、水たまりに片足をズボッとつっこんでしまった。千尋はけんけん足で濡れたサンダルをつまみあげた。拭くものもないし、まあいいか、とそのままかがんで履き直そうとした時、ふと地面に彼の足先が見えた。
 千尋が顔を上げると、綺麗にたたまれたハンカチを目の前に差し出してくる。
「あ、ありがとう。……あの、」
 意を決して何かきいてみようと思う千尋だったが、肝心のハクが視界から消えた。
 彼はひざをついて、千尋の濡れた足をその手にとっていた。まるで壊れ物に触れるような手つきだった。はだしの甲やかかとを、ハンカチでそっと押さえるようにして拭いていく。そして地面に転がっている片方のサンダルも綺麗にすると、元どおりに千尋の足に履かせてやった。
 ふと彼が顔を上げた時、今度は、千尋の方が反射的に目を逸らしてしまっていた。──ひどく恥ずかしい粗相をしてしまったような、決して誰にも言えない秘密をつくってしまったような、そういう気分だった。
「足元に気をつけて。──この道はぬかるむから」
 静かな声でそう忠告し、ハクはふたたび千尋に背を向けて歩きだした。
 
 
 


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