第4話

 地下の長いトンネルを抜けた先に、あの湯屋があった。以前、千尋が橋の上から覗いた線路を、電車は一定の速度をたもちながら走っている。千尋は首をのばして窓の外の景色を眺めた。夜空をつらぬくようにそびえ立つ「油屋」は、華やかな照明と享楽の気配にいろどられ、遠ざかってもなお、闇夜の中でひときわその存在感を放っている。
 待人のいない駅で、電車は停車した。降りる乗客もいないまま、再び発進する。
 外はいつか見たような広大な海にはなっておらず、ところどころに水たまりをとどめた湿原がどこまでも続いていた。時々、暗がりの中に目を凝らすと、町や民家の灯りが見える。
 千尋は油屋で出会った人々を思った。あの人達はまだ、あの場所で働いているだろうか。それとも何人かは、彼のように外へ出てみたりしただろうか。
「ハク」
 乗客がほかに誰もいなくなると、千尋はつい声をかけてしまった。向かい側の端の席に座っているハクが、物思いに沈んでいるような表情のまま、ゆっくりと視線を向けてくる。
「リンさんは、どうしてるかな? 釜爺も、坊も、おばあちゃんも、みんな……元気かな」
 千尋はふと笑顔になる。
「あの時は、ありがとう」
「……?」
「ハクがいなかったら、わたし、どうなってたかわからない。お父さんもお母さんも、あのままだったら……。今頃、家族四人で暮らしてなんかないよね、きっと」
 ハクが小首を傾げた。
「家族四人?」
「妹が生まれたの。すごくかわいいんだよ。毎日、学校帰りに幼稚園まで迎えにいって、一緒に帰ってる。おやつも作ってあげるんだ。わたしももうすっかりお姉ちゃんだよ」
 千尋はハクの顔をじっと見つめる。
「ハクって、お兄ちゃんみたいだったよね。わたしを助けてくれた時、すごく頼もしかった」
「そうでもないよ」
「ううん。ハクがいてくれて、本当に心強かったの。わたし、向こうに帰ってからも、ずっと……」
 言いよどみ、千尋はごまかすように彼から視線を逸らした。頭の上では古びた扇風機が回っていたけれど、それでも車内は少し暑いような気がした。
 ハクが背もたれに背中をあずけ、長い脚を組む。油屋でまとっていた水干を脱ぎ、洋装がもうすっかり身に馴染んでいるようだった。あれから六年が経つ。千尋も成長したが、この世界でも確実に時は流れているらしい。
 会話と呼べるほどでもない、ほとんど独り言に近いやりとりを時折まじえながら、停車駅を指折り数えていく。
 ──そうしていつしか、電車は「沼の底」へと差しかかっていた。
 徐々に減速しながら無人駅に停車しようとしている時、それまで目を閉じて横顔ばかり見せていたハクが、ふいに千尋の方を向く。
 その双眸に、にわかに困惑の色が生じた。
 千尋に降りる気が全くないことを、彼は瞬時にして悟ったようだった。
「……降りなさい」
「嫌」
 即座に千尋はこたえた。
 見えない糸が、二人の間でピンと張りつめた。
 それでも静かな、感情を抑えた声で再三、ハクが促してくる。
「今すぐ、降りるんだ」
「ハクはどうして、おばあちゃんの家に帰らないの?」
 千尋は座ったまま、梃子でも動かない。
「約束したんでしょ。一週間で帰るって」
「そなたには、関係のないことだ」
「関係なくなんかない。ハクのこと、一人っきりで放っておけないもん。……一緒に降りてくれないなら、わたしも絶対に降りない。無理やり降ろされたって、線路の上を走って追いかけていくから」
 ハクは聞くに耐えないというように、首を振って千尋の前に立ちはだかった。見下ろしてくる瞳には、今や哀願がこめられている。
「──……覚悟もないのに、そういうことを軽はずみに言うものではないよ」
「覚悟って、なんの覚悟?」
 千尋は眉をひそめた。ハクが唇を噛みながら目を逸らす。
「わたしの目を見て」
「……」
「ハク。言ってくれないと、わからない」
 その時、電車の自動ドアが蒸気を吐くような音を立てて閉まった。ハクははっと息をすくめるが、無慈悲にも電車は汽笛を鳴らし、二人の乗客を乗せたまま、次の駅に向けて出発してしまう。
 千尋は首をひねり、去りゆく「沼の底」の夜景を窓越しに眺めた。
 ひざの上に置いたカンテラはわが家が恋しいのか、灯火がゆらゆらと揺らいでいるように見える。一瞬、あの白い仮面が宵闇の中にぼんやり浮かんでいるのが見えたような気がした。確かめようと千尋が目を凝らした時には、もうすっかり遠ざかってしまっていたけれど。
「……」
 ハクはもう何も言わなかった。手で目元を覆いながら、気力が尽きたように千尋の隣にどさりと腰を下ろした。
 
 


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