第3話
千尋ははっと我に返った。
どうやら勉強机に突っ伏したまま、まどろんでいたらしかった。一人きりの部屋の中で、扇風機がうなるように音を立てている。今見たと思ったものは、初めから全部夢だったのかもしれない──。深い落胆を覚えてまた腕の中に顔を伏せた。
ふと、肘に何か硬いものがコツンと当たったのを感じた。
見れば机の上に、古びたカンテラが置いてある。
まだ灯りがかすかに残っており、触れてみると、人肌のようにほんのり温かかった。
「夢じゃなかったんだ……」
息の詰まるような思いで千尋はささやいた。
それからは考えるよりも先に、体が動いていた。
カンテラの光が消えることをおそれるように、千尋は慌ただしく部屋を出た。扇風機は回しっぱなしで、風呂上がりのパジャマ姿、はだしにサンダルをつっかけ、着の身着のままで夜道を駆け下りていく。
鬱蒼とした森は不気味なほど静まり返っていた。窓を閉めた家の中でもあれほどこだましていた蝉の声が、今はまったく聞こえない。そうしたことを気にかける余裕もなく、千尋はただひたすら先をいそいだ。今日、この時を逃せば、もう二度と向こうの世界へつながることはないように思われた。
空を覆い隠すほど黒々と生い茂る木々にかこまれた一本道の先に、これまで何度となく千尋を通すことを拒んできたトンネルが、突如としてその姿を現す。
千尋は一度、深呼吸をした。
それから、まだほのかな灯りを失わずにいるカンテラを顔の高さまでかかげ、慎重に、最初の一歩を踏み出した。
足音が狭いトンネル内にこだまして、まるで何人もの人が歩く足音のように聞こえる。千尋は、誰かが自分のあとをついてきているのかもしれない、と思ったが、後ろを振り返ることはしなかった。
永遠にも感じられるごくわずかな時間を経て、闇に包まれた空間は出口へとさしかかった。
──その先が、今回ばかりはただの行き止まりではなかったことに、千尋はほうっと安堵の息をつく。
見覚えのある光景が目の前にひろがっていた。まるで外国の駅の待合所のようだ。淡いランプの灯りに照らされた円柱が天井をささえ、そのかげに置かれたベンチには、ぽつりぽつりといくつかの人影が座っている。
千尋も空いているベンチを見つけて、腰をおろした。なぜか、ここで待っていれば電車が来る、自分は電車に乗らなくてはいけない、──という気がしていたのだった。
色ガラスのはめ込まれた高窓からやわらかな月の光がさしこみ、千尋の手にしているカンテラを美しくきらめかせる。
やがてどこからか、電車の近づいてくる音が聞こえてきた。すると一人、また一人と、人影が音もなく立ち上がり、奥の入口に消えていく。千尋もカンテラをかかげてあとにつづいた。戸のない入口をくぐれば、そこから先は急勾配の階段になっている。足もとに気をつけつつ下へ降りていくと、暗く湿っぽい地下のプラットホームに出た。先に降りていった人影が、小さな列をなして電車を待っている。
汽笛が鳴り響いた。線路の向こうから、まるで動物の目のように光る二つのライトが近づいてくる。千尋は列の最後尾にならんだ。いつか乗ったことのある電車は、記憶にとどめていた姿のまま、地下のトンネルをくぐりぬけてきて、ゆるやかに減速しながら千尋達の前で停車した。
──あ、どうしよう。
感慨にひたっている暇はなかった。いざ乗車するという時になって、千尋は急に焦りだした。切符を持っていないことに気がついたのだ。反射的にパジャマのポケットへ手をつっこむが、当然、十円玉のひとつさえ入っていない。
「あの、すみません。わたし、切符がなくて……」
千尋はすっかり意気消沈し、みじめな声で申告した。
──すると、物言わぬまま電車のドアを閉めかけた車掌の肩に、一人の乗客が背後からそっと手をおいた。
そして、ごく自然なことのように、二枚綴りの切符を、車掌に差しだしたのである。
車掌は、呆気にとられる千尋を見、また、彼女が手にしているカンテラも、めざとく「乗客」と見なしたのだろう。親切な乗客から受け取った二枚綴りの切符を手ばやく処理すると、やはり一言も発することなく、さっさと車内にもどってしまった。
「ちょっと、待ってください──」
千尋があわてて電車の段差に足をかけた瞬間、彼女の背後で自動ドアがガタン、と音を立てて閉まった。
ほかの乗客達は空いている席に座り、またあるいは、頭上から下がっているつり革につかまる。まもなく電車はゆるやかに発進した。先程まで千尋がいた地下のプラットホームが、みるみるうちに窓から消え去っていく。
片手で段差の手すりにつかまりながら、千尋はその、親切な乗客を見上げた。相手もまた、千尋を覗き込むようにじっと見つめていて、その深く緑がかった神秘的な瞳が、千尋にはひどく懐かしく感じられる。
「切符を、ありがとう……ございました」
少しの緊張を覚えてつい、丁寧な言葉をそえた。相手は二度、まばたきをする。
「なぜ、他人行儀なの?」
ごく静かにたずねてくる。同じくらい落ち着いた声で、千尋は正直に打ち明けた。
「わたしのこと、もう、覚えてないかと思って」
「まさか」
帽子のつばの陰で、相手がかすかに笑った。──けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに怖いほど真剣な表情になる。
「今度はあまり長居をしてはいけないよ。このまま『沼の底』で電車を降りて、銭婆さまに助けてもらうといい。きっとすぐに元の世界へ帰してくれる。いいね?」
「ハクは一緒に降りないの?」
「──私は、先の駅まで行くから」
千尋は何も言わずに、空いている席に座った。地下を走っているせいだろう、向かいの窓の外は真っ暗で、美しい眺めなどなく、ただ唇を真一文字に結んだ自分の顔がにらみ返してくるだけだ。
他人行儀なのは、いったいどっちの方だろう、と思った。
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