第2話

 共働きの両親を心配させないよう、帰り道であった出来事は話さないでおくことにした。
 妹に口止めする必要はなかった。帰宅してから千尋はそれとなくその話題を持ち出してみたのだが、妹はきょとんとした顔で首を傾げるばかり。あの不可思議な現象については、もう何も覚えていない様子だった。
 好物のハンバーグを頬張る妹の普段と変わらない笑顔を見守りながら、あの魔女が妹を介して彼女に直接話しかけてきたことは、決して夢ではなかったのだ、という確信を千尋は得ている。
 ──あたし達には、お前が必要なんだ。
 千尋は箸を置き、手首に光る髪留めを見つめた。あの不思議な世界から持ち帰ることができた唯一のもの。あの魔女は「おまもり」だと言っていた。
 そうと信じて、ずっと肌身離さず身につけていた。年の離れた妹が生まれてからは、妹を守ってもらえるようにと願いをこめて、伸ばしかけの髪を結ってやるようになった。
 おまもりがある限り、あの世界と繋がっていられると信じていた。
 けれど、いつかまた呼び寄せられる日が来るかもしれないことを、最後に夢見たのはいつだっただろう。
「だって、あれから何回行っても、トンネルは行き止まりだったし……」
 洗面台の鏡越しの自分に、千尋は言い訳がましくつぶやきかける。忘れようとしていたわけではないけれど、近頃は、前ほど思い出すこともなかったかもしれない。その報いだろうか。今になってまた、向こうの世界が彼女に呼びかけてくるのは。
 廊下の電気をつけようとして、千尋は立ち止まった。
 暗がりの中から視線を感じたのだった。
 仮面をつけた黒い影が、闇にまぎれて千尋をじっと見つめている。
 妹はそれを「おばけ」と呼んだが、千尋にはその正体が分かっていた。
「……わたしに話があるの?」
 リビングの家族に聞こえないよう、千尋は小声で囁きかけた。
 廊下の先で、影がゆっくりと頷く。
「だったら、わたしの部屋で」
 影はまた、今度は少し嬉しそうに、仮面の表情をゆるめて頷いた。
 千尋は通り過ぎざま、その手をとろうとした。けれど空気をつかむように感触がない。妹の言う通り、本当に「おばけ」なのかもしれない。千尋が足元を気にしながら階段をあがると、仮面の影も足音をしのばせるような動作をしながら、数歩の距離をおいてあとについてくる。その肩には見覚えのある子ネズミがのっていて、ハエドリがさかんに羽をうごかしながら千尋の肩まで運んできたが、やはり千尋の手で撫でてやることはできなかった。
 扇風機のスイッチを押すと、窓の向こうから聞こえていた蝉しぐれが風の音で遠のいた。千尋は勉強机の椅子をひいて浅く腰かけた。カーテン越しに差しこむ月の光がますます仮面男の影を薄くする。
 ほどなくして千尋は溜息をつく。揺らめく影はただひたすら沈黙をまもるばかり。話をするために呼んだのに、そもそも相手が話す言葉を持たないことを思い出したのだった。
「おばあちゃんが、わたしを必要だって言ってた。……ハクによくないことが起こりそうだって。でもわたし、どうやって向こうに行けばいいのかわからないの。今まで何回もやってみたけど、だめだったもん」
 うなだれる千尋に、仮面がそっと近づいてきた。差し出された手が透けているのを見つめながら、千尋はくぐもった声を出す。
「……それって、ハクがわたしを呼んでないってことなんじゃないかな。ハクはもうわたしに、向こうの世界には来てほしくないんじゃないかな」
 千尋の肩の上でネズミが反発するようにキイキイと声をあげた。耳の前に垂らした髪の毛をひっぱられているようだが、ネズミに実体がないせいで何も感じなかった。
 心もとない顔をしている千尋の鼻先に、仮面男はおもむろに何かを差し出してくる。灯りの消えた古いカンテラだった。千尋はそれを受け取りながら、問いかけるようなまなざしを相手に向けた。仮面が心なしか微笑んでいるように見える。
「あ……」
 やがてカンテラの中がチカチカ光りだしたかと思うと、ほのかに周りが明るくなり始め──
 いつしか千尋の目の前には、二つの人影が並び歩いていた。

 周囲は深い夜霧につつまれている。命を吹き込まれたカンテラが、一本足でしきりに飛びはねながら二人の足元を照らしていた。
 一人は黒く、もう一人は白かった。千尋はまるでカンテラのすぐそばに立って、二人を見つめているかのようだった。千尋には目もくれずに通り過ぎていったから、二人共千尋の姿は見えていないらしい。
 足から根が生えたようにその場で立ち竦んでいるうちに、千尋はあやうく暗がりの中で一人置いていかれそうになる。
「──……さあ。どこまでだろう」
 追いつきざま、白い方がつぶやくのが聞こえた。千尋の知る少年の姿とは違っていたが、容貌と声に確かな名残がある。
「私自身にもわからないんだ。どこまで行けば、気が済むのか」
「ア……ア……」
「心配はいらない。一週間で帰ってくるから。銭婆さまにも、そう約束したんだ」
 千尋は数歩下がったところで、カンテラの灯りに照らされるその寂しげな横顔を見ていた。
 ──胸の奥が、針で突かれたようにちくりと痛んだ。
 何が彼にあんな顔をさせているのか。本当の名を取り戻したから、本当の自分を思い出したから、もう平気だと言っていたのに。今、千尋が見ている彼は、まったく平気そうではなかった。何もかも虚しく、満たされない、そんな顔つきだった。
 そんなはずはない。
 別れ際にあの少年が見せた晴れやかな微笑みを、千尋は懸命に思い出そうとする。けれど、目の前の陰りある横顔が重なってしまい、なかなか前のようには笑いかけてくれない。
「ハク──どうして?」
 千尋は思わず手を伸ばすが、その手は彼の手に触れることなく、幻のようにすり抜けてしまった。
 


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