第1話

 おねえちゃん、と、不安げな声が千尋を呼んだ。
 繋いだ手を、まるで縋るように強く握りしめてくる。その小さな手はかすかに震えていた。幼い妹のただならぬ様子から、何かにひどく怯えているらしいことを悟った千尋は、しゃがんで妹と目線の高さをあわせる。
「ねえ、どうしたの?」
「……こわいよう。おねえちゃん」
「──怖い? 何が?」
 妹は口をへの字に曲げ、今にも泣き出しそうな顔をして俯いた。くぐもった声でぽつりとつぶやく。
「みてるよ」
「えっ?」
「おねえちゃんには、みえないの? ……おばけが、こっちみてる」
 どこにいるの、と聞きかけた千尋のすぐ側を、猛スピードで乗用車が走り去っていった。窓は全開で、笑い声と大音量の音楽がもれ聞こえていた。その車が巻きあげた砂埃と排気ガスにむせながら、千尋は思わず眉をひそめる。自分が車道側を歩いていてよかった。人通りの少ない国道沿いはああしてスピードを出してくる車が多く、幼稚園児を歩かせるには危険がともなうのだ。
「おばけなんかより、ああいう人の方がよっぽど怖いよ。絶対、わたし達のこと、見えてたはずなのに……」
 千尋は妹の小さな頭を園帽越しになでてやり、中腰のままでふいに硬直した。
 ──どこからか、視線を感じたのだ。
 沿道のひなびた商店の戸口、その上にかかる錆びついた看板、半端にカーテンが開けられた二階の窓、斜めに傾いて見える電柱の裏、道路の向かい側の擦り傷だらけのガードレール──そうした場所に千尋はいちいち神経質なほど目を向けてみるが、特にいつもと変わったところはない。
 ひょっとすると、不審者かもしれない。高校からも幼稚園からも、時々、変質者出没の注意喚起がなされるのだ。お知らせの配布物を家に持ち帰ると、母はいつも口を酸っぱくして千尋に姉の責任を説くのだった。小さな妹を、絶対にひとりで帰って来させないように、と。
 にわかに気味が悪くなってくる。
「ねえ、早く帰ろうか。テレビも始まっちゃうし。──あっ、そうだ。おやつは何がいいかな?」
 千尋は不安を気取られないよう、つとめて明るく妹に問いかけた。
 だが妹は俯いたまま、返事をしない。拗ねているのか、具合でも悪いのか。
「……どうしたの?」
 心配になった千尋が顔を覗きこもうとすると、あやうく鼻がぶつかりそうな距離で、妹は突然ぱっと顔を上げた。
「おやつは、そうだねえ……。あたしが焼いた、フルーツケーキなんかどうだい?」
 幼い少女のものとは似ても似つかぬしわがれ声が、その唇から発せられた時、千尋はわが耳を疑った。思わず、妹の顔をまじまじと凝視してしまう。
「驚いたかい。まあ、無理はないね」
 と言ってほがらかに笑う声は、やはり老婆のもののようだ。──それも、確かに聞き覚えのある声だった。
 混乱した千尋は、自分のこめかみをおさえた。
「えっと、あの、まさかとは思うけど……──あなたは、銭婆さん?」
 消え入るような声でたずねれば、妹はご明察とばかりに両方の口角をきゅっと引き上げた。
「あたしのあげた髪留めを、この子が身につけていてくれたんで、助かったよ。この子の口を借りて、こうしてじかに話ができるからね」
「おばあちゃん……」
「でもゆっくり話している時間はない。──千尋。あたし達には、お前が必要なんだ」
 妹の表情が厳しいものに変わる。千尋は目を見開いた。
「お前のボーイフレンドのためにね」
「まさか……ハクに、何かあったんですか?」
 口の中がからからに乾いている。その名を口にするのは、あの少年と別れた日以来のことだった。
「まだ、そこにいるの? 本当の名前を取り戻したから、元の世界に帰るって言ってたのに……」
 妹は険しい顔つきのまま、千尋の肩に手を添えた。
「あの子はまだここにいるよ。そして我を忘れてしまっている。このままでは、よくない」
「──我を忘れてしまっている?」
 千尋の脳裏に懐かしい顔が浮かび上がった。優しい微笑みを思い出して胸が痛む。彼はまた、自分の名を忘れてしまったのだろうか。
 千尋はもっと詳しく話を聞きたかったが、近所のご老人に通り過ぎざま挨拶をされた時、妹はもう元通りの声で挨拶を返していた。魔女は、妹から離れたらしい。
「おねえちゃん、どうしたの?」
 千尋が無言で髪留めをはずすので、髪をおろされた妹はきょとんとする。千尋は自分の手首に通していたヘアゴムで妹の髪を結び直し、光る髪留めは自分の手首にはめた。
「おばけ、まだ見える?」
「……えっ?」
 怖いことを蒸し返された妹はあたりをきょろきょろ見回した。しばらく念入りに周囲をうかがっていたが、やがてほっとしたような笑顔で、首を横に振った。
「ううん。もう、いない!」
 上機嫌になった妹に手を引かれながら、千尋は帰路を歩き出した。さっき追い越していった近所のご老人にあっという間に追いついた。妹はまた、元気よく挨拶をかわす。
 振り返ると、それはやはり、千尋を見つめていた。

 


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