嫁とり花



「あ……」
 犬夜叉の心臓が大きく脈打つ。呼びかけた声を、喉の奥に押し込める。何やらこのうえなく神聖な光景を目の当たりにしたように思われ、その瞳はまばたきさえ忘れた。
 彼の存在には気付いていない。誰かに見られているとは思ってもみないのだろう。両脚をきちんと畳むようにしてしゃがみながら、岩陰に咲いた野花にやさしく接吻している。
 その横顔の清らかさ。深い水に溺れていくように、犬夜叉の息が詰まりそうになる。──今年もその花は咲くのか。こうべを垂れるその姿に、遠い日のあの懐かしい面影を残したまま。
 彼はみずからが藁をつかむように、相手に縋るようにその手を差し伸べた。
「……遅えから、迎えにきた」

 涙が湧きだしそうになる。悲しいわけでもないのに、見上げる顔がにわかに霞みはじめる。──まるで夢とうつつのあわいにいるような心地がする。彼女はそれが今まさにこの目に見えている現実なのか、あるいは彼女の魂が覚えている最も古い記憶を見ているにすぎないのか、そのどちらともつかぬまま、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
 視界の端にはあの一輪の青紫が揺れている。彼女がその名を呼びかければ、今にも心の中から声が返ってくるような気がする。こうして幸せな時、あの人もまた、幸せを感じているだろうかと思う。
 犬夜叉の節くれだつ手を握り締めながら、彼女はふと囁きかけた。
「私の過去も、今も、これからも──ずっとこうやって、迎えに来てくれる?」
「当たり前だろ。こうやって、かごめが手を握り返してくれるなら……いや、そうでなくても、きっとおれは」
 犬夜叉が口ごもり、じれったそうにかごめを見た。かごめはあの花をやさしく手折り、胸に押し当てた。この高鳴りを心に深く刻んでおきたい。
 ほころぶ彼女の頬に、かすめるような接吻の感触があった。





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