にんげんかぶれ


 どれほど刀を振るおうとも、断ち切ることのできない敵がいる。ほんの一閃にして幾百千もの妖怪を吹き飛ばす鉄砕牙が、その敵には切っ先を触れさせることさえかなわない。そうして犬夜叉が途方に暮れている隙に、敵は次々と彼が守る人びとを脅かしはじめる。日を追うごとに、一人、また一人と、村人たちが恐るべき敵の餌食になってゆく。立ち向かう術をもたない彼は、苦渋に満ちた顔でただ、人びとの苦痛にうめく姿を見ているよりほかない。
 若き日々の孤独に生きていた彼であれば、人間の境遇にこうも心痛めることもなかっただろう。それが愛する人を得、長いあいだ人間と心通わせて暮らすうちに、いつしか深い情愛を抱くようになっていた。なにしろあの村に住む人間は、彼自身の血を分けた子のみならず、遠い昔の仲間たち、愛する嫁の親しんだ話相手、子どもたちの遊び仲間──そうした彼にとって縁深い人びとをおやにもつのだから、それだけで犬夜叉にとっては無条件に守り、慈しむに値する存在であった。
 愛する人と過ごした日々を思い起こさせてくれる人間たちが、疫病という忌まわしい敵に蝕まれていくのを見ているのは辛かった。けれどなお耐えがたいのは、彼の孫子まごこのうちのひとりが、憔悴しきった顔をして、
「村をよそへ移すんだって」
 と告げてきたことだった。そして息をつめる彼に哀願するのだった。
「犬のじいちゃん、一緒に来てくれるだろ? 生き残った人はみんなそう願ってるよ。みんな心細いんだ。もちろん、誰もここを離れたくなんかないよ。それでも、どうしても新しい土地に行かなきゃならないんだったら、じいちゃんがついていてくれるなら安心だって言ってる。みんな、みんな頼りにしてるんだよ。おれたちが生まれるよりもずっと前から、じいちゃんはこの村の守り神でいてくれてるから。──だからじいちゃん、これからもずっと、おれたちの側にいてくれるよね? ……まさか、たった独りきりでここに残る、なんて言わないよな?」
 犬夜叉は黙っていた。握り締めた拳が、噛み締めた唇が、閉じた瞼がかすかに震えていた。──無力だった。そしてその心は、千々に乱れていた。
 自分を信じ慕いつづけるこの村の人間が愛おしい。できることならどこまでも彼らに寄り添い、ともに支えあい、あらゆる危険から守り抜いてやりたかった。彼らの言う「守り神」となって安心させてやりたかった。けれど、この村には彼の愛する人が眠っている──忘れ得ぬ人と暮らした思い出がある。かの人は永遠に彼の心から去ることがない。だから犬夜叉も彼女の側を離れないことを己の心に誓ったのだった。彼は目の前の少年にありのままを告げた。自分は決してこの地を去りはしないのだと。彼女を置いて、他のどこへも行きはしないのだと。
「──しょうがねえな、犬のじいちゃんは。可愛い孫のお願いだってのに」
 遠い孫がいまにも泣き出しそうな目をして笑う。頭をくしゃりと撫でてやれば、がきじゃねえと子犬のように吠える。しまいには、あんたのところには二度と帰るもんか、可愛げのない捨て台詞をのこして、それでもやはり気丈に、屈託なく笑いながら去っていった。
 すまねえ、と。──そして、いつまでも待ってる、と、その背にむかって犬夜叉は告げた。
 人間は見かけよりもずっと強くて賢いことを、彼は知っている。自分がおらずとも、彼らはどこででも逞しく生きていけるだろう。新たな地でありふれた生活を営み、時が流れ、いつの日か疫病という魔物がこの地を去った時、ふたたび懐かしい故郷へ帰ってくるだろう。
 ──可愛い子には旅させろ。
 遠い昔、かの人がつぶやいたかもしれない言葉が、犬夜叉の口をついて出る。まじないのように、何度か自分に言い聞かせるが、それでもやはり後ろ髪ひかれるようで、しだいにうすれゆく匂いを、心ならずも名残惜しく思った。



19.06.23
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