寄せては返し


「向こうでいい人ができたの?」
 ここへ来てはいけない、──という警告を口にしなくなったのは、いつからだろう。今回は一目見るなり、つい、心にもない軽口をたたいてしまった。
 すかさず臆することなく歩み寄ってきた千尋が、彼の脇腹をひじで突いてくる。
「覚えがないわけじゃないでしょ」
「──……では、やはり」
「ああ、歩いたらおなか空いちゃった。でも、やっぱりここでは食べないほうがいいよね……」
 昼間時の閑散とした飲食街をもの欲しげにながめながら、千尋はまた歩き出そうとする。「最近は食べても食べても足りなくて、びっくりしちゃう」笑いながらそう打ち明けてくる。無人に見える店々から立ちのぼるあたたかな炊煙が、青ぎった空にゆっくりと吸い込まれていく。
 ハクは彼女の肩に、わずかに震える手を添えた。
「──前にこちらへ来た時だね、そうだろう?」
「うん、まあ、そうだよね……」
 今の今まで平然としていた千尋がはにかんで頬を押さえる。問いかけがあまりにも直接的すぎたようである。けれどもそのことを気にかける余裕は今のハクにはない。天にも昇る心地とは、まさにこのことだろう。
 日没までは、いつにも増してあっという間に感じられた。
 ハクはまず千尋の話を余すことなく聞き、自分が知り得るかぎりのあらゆるまじないを授け、この世界の貨幣を人間界の通貨に換金し、千尋へ渡した。隣町の商店街にも連れて行き、買い物ついでに何か滋養のある食べものをと思ったが、ここでは千尋は飲食をしないほうがよいのだったと思い出す。
「次はいつ、トンネルが通じるかな」
 今日はことさらその手を離しがたい。できることなら片時もはなれずそばにいて見守っていたいが、次会う時は明日か来週か一月先か一年先か、彼らにはあずかり知らぬことである。さざなみのように寄せては返し、返してはまた寄せ、心のひたむくまま逢瀬を重ねてゆくばかり。
「毎日、トンネルを見に行くからね」
「私も、毎日ここで待っているよ」
「次は、ひょっとすると──」
「……うん。今からとても待ち遠しいよ」
 口約束こそが確かなよすが。いつとも知れぬ再会を信じ、今日も彼はいとしいその手を離す。




19.06.02



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