呼ばい


「私を憶えている? ……それとも、やはり思い出せない?」
 ベッドに屈みざま、若者の肩から髪が幾筋かこぼれて、白磁の頬にはらりと降りかかった。真上から、顔を覗き込まれていた。瞬きを忘れたように、千尋は上掛けを握り締めながら、その瞳を見つめ返した。
「よばいに来たんだ」
 寝物語を聞かせるように静かな声で、若者は囁きかける。
 ──よばい。
 その言葉の意味がわからないような、無知な子どもではない。千尋の頬がにわかに血色を帯びた。美しい思い出を、土足で踏みにじられたような気分だった。
「ハクがそんなこと、するはずない。あんなに優しい人なのに」
「──……今、私の名を呼んだ?」
 若者は驚きを隠そうともせず、目を見開いた。訝しげに眉をひそめ、千尋は頷く。
「もちろん憶えてる。あなたが教えてくれた本当の名前も。──でも本当に、あなたはハクなの?」
 みなまで言い終える前に、若者は千尋に覆い被さるようにして、ひたいとひたいを合わせていた。
 ──私の本当の名は、ニギハヤミコハクヌシだ。……
 いつかの記憶が千尋の脳裏に浮かぶ。それはまぎれもなく、二人だけが知り得る光景だった。千尋は少年の記憶を通してあの日の少女を見、若者は少女の眼を介して、あの胸躍るような夜を追体験するのだった。
「ハク。……あなたは本当に、わたしのコハクなの?」
 目の前の若者の、みなぎる感動に照り輝く瞳が、あの少年の双眸とかさなった。かすかに震える手で、千尋は若者の頬に触れてみた。幻でないことを確かめるように。
 若者が、その手に自分の手を重ねた。
「そうやってもう一度、名を呼ばれたいがために、私は一柱ひとはしらの神として、一人の男として、今夜、そなたをよばいに来たんだよ。──千尋」




19.04.13
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