命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 7 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 7


「……ごめ様、かごめ様」
 呼ぶ声がすると、かごめは夢見心地のまま薄く目を開けた。天井には荘厳な大犬の絵が描かれている。雲中を翔ける大犬は射るような鋭い眼差しをかごめに向けている。
「もうじき夜が明けます」
 誰の声だったっけ、と思いながらかごめは気だるく上半身を起こした。すかさず誰かが衣を肩に掛けてくれる。桃色地に金箔や鶯の散るそれは、肌触りのなめらかな上質の打掛けだった。
 そこではたと硬直する。眠る前確か自分は裸だったのでは、と思いながら恐る恐る視線を落とした。そして、慌てて打掛けの合わせ目を閉じた。
 松明の炎が揺れている。障子の向こう側から黎明の薄明かりがこぼれている。
「おはようございます、かごめ様」
 障子のすぐそばで座したまま、深々と低頭したのは黄金(こがね)だった。隣の白銀はそれを見て、申し訳程度に頭を下げる。
「お、おはよう…」
 掛けていた衾を打掛けの上から身体に巻きつけながら、かごめは吃って言った。
「……犬夜叉は?」
 白銀(しろがね)は黙って座敷の奥に視線を向けた。振り返って、かごめは一瞬目を丸める。
 犬夜叉は黄金の持つ松明から離れたところで、片膝を立てて座っていた。黒い衣を着ているせいで闇にまぎれてしまいそうだった。顔には般若の面をつけている。
「よく眠れたか?」
 面の奥から犬夜叉が静かに訊いた。かごめは突然頬を染める。昨晩の記憶が不意に蘇り気恥ずかしくなった。
「あの状態で安眠できたら、よっぽどの鈍感よ」
 皮肉を込めてかごめは言った。犬夜叉がほんの少し肩を揺らす。
「……鼾をかいていたが」
「えっ!?」
「冗談だ」
 にこりともせずに(したところで面を被っていては見えないのだが)犬夜叉は告げた。かごめは憮然とした顔で黄金と白銀を向き直る。
「貴方も冗談をおっしゃる時があるのですね」
 白銀が淡々とした口調で犬夜叉に向けて言った。かごめは思わずその少年を凝視してしまう。切り揃えられた銀髪と童子姿があどけなさを醸してはいるが、面差しは怜悧だった。犬夜叉の異母兄は、幼少時代にはもしかするとこんな容貌だったかもしれない、と彼女は思う。
「……殺生丸」
 思わず懐かしい名を呟いていた。
「主人の御連枝でしょうか」
 すかさず白銀が訊いた。知っていたの、とかごめは目を丸める。
「今は天上の邸にいらっしゃると聞き及んでおります。…この数百年の間に、人間は変わりました。穢れきった地上は最早妖にとっては棲みがたき場所。そうなさるのが賢明でしょう」
 淡々とした言葉に皮肉と非難がこめられているのをかごめは確かに感じ取った。彼女に対してのどこか冷淡な態度に合点がいく。この白銀という少年は、人間が嫌いなのかもしれないとかごめは思った。
「……殺生丸?」
 今まで黙していた犬夜叉が口を開いた。初めて聞いた名を口にするような響きだった。
「犬夜叉のお兄さんよ。覚えてない?」
 かごめはつとめて優しく語り掛けた。
「あんたたち、五百年前はいつも兄弟喧嘩ばかりしてたのよ。お父さんの形見の鉄砕牙をめぐって。……そういえば、鉄砕牙はどうしたの?」
「…鉄砕牙?」
「あんたの刀よ。いつも腰にさしてたじゃない」
「刀…腰にさしていた刀…」
 犬夜叉は片手で頭を押さえた。頭痛を堪えるかのような様子だった。
「……あの刀は…鉄砕牙は、もうない」
 悲しみを湛えた声で囁いた。大事な人を亡くしたかのようだった。確かに、ともに鍛練を積んできた愛刀を失ってしまったことは、それだけの悲しみを呼び覚ますことかもしれない。それ以上は聞けず、かごめは沈痛な面持ちで閉口した。

 黎明の訪れと共に、犬夜叉はまた衾に臥してしまった。部屋に戻り、着替えと朝餉をすませたあと、かごめは黄金たちに来るよう指定された別の座敷へと向かう。
 障子を開けてかごめは瞠目した。そこは彼女が拐かされたときに、閉じ込められた座敷だった。奥にはあの絢爛な屏風が飾られている。花鳥風月の中に佇む青年。屏風の前に座ると、かごめは思わずそれに見とれた。
「その屏風がお気に召しましたか?」
 背後から黄金が訊いた。かごめは振り返らずに、こくりと頷く。
「……この人は、犬夜叉?」
 黒装束の青年を指さしてかごめは問い掛けた。
「はい。そしてその金色の子犬は、私です」
 それは意外な返答だった。かごめは青年の足元に侍る愛らしい子犬を見遣る。
「じゃあ、この銀色の犬が」
「白銀です」
 こちらもやはり、毛並みがふわふわとして愛らしい子犬だった。尻尾が今にも動き出しそうなほど鮮明な絵。かごめはかつての仲間を思い出す。自らを母や姉のように慕ってくれた子狐。
「七宝ちゃん、あのあとどうなったんだろう…」
「妖狐の七宝殿のことですか」
 打てば響くように声が返ってきた。かごめははっとして黄金を振り返った。
「七宝ちゃんのことも知ってるの?」
「存じております。今は大陸に渡り、修練を積んでいらっしゃるようですが」
 七宝がどこかで生きている。思わぬ吉報に、かごめの目頭が熱くなった。
「そう…よかった。七宝ちゃんは妖怪だもの、生きていても不思議じゃないわよね」
「一度此処へ訪ねてこられたときがありました」
 これもまた意外な返答だった。
「…そうなの?」
「はい。ですが私と白銀の結界に阻まれ、鳥居をくぐることは出来なかったようです」
「結界…?せっかく来てくれたのに、どうしてそんなものを張る必要があるのよ」
 かごめは眉を顰めた。
「かごめ様はここへ来たあの日、鳥居の傍の狛犬をご覧になりましたか?」
 黄金の問い掛けに、かごめは脱走しようとした日のことを思い出した。走ってもなぜか近づけない鳥居の近くに、確かに狛犬の石像があったのを記憶している。
「ええ、見たわ」
「あの狛犬達は、私と白銀です」
「……えっ?」
「私達は、大抵あの場所で門番をしています。狗魂以外のものが迷い込まぬように結界を施しているので、この屋敷は常人の目には見えませんが、稀に霊力のある人間や妖の類が入り込もうとするときがあるゆえ、その時には鳥居の結界を強めて追い返さねばならないのです」
「どうして追い返すの?七宝ちゃんだって、きっと犬夜叉のことを探しに来てくれたのに」
 狗魂という言葉に一瞬浮かんだ疑問を忘れ、怒りを露わにかごめは問い質した。黄金は困ったような表情を浮かべる。
「あの方に人間や妖を近づけたくないのです」
「なんでよ?」
「……あの方は弱っておいでですから。というのも…」
 声を潜めて黄金は言った。続く言葉はかごめにとって、耳を疑うようなものだった。
「あの方は本来であれば、四百年前に亡くなるはずの方でしたので」
 かごめは言葉を失った。





To be continued... 

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