赤い鬼
──鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
目隠しだけでは不公平だからと、鼻をつかうことを禁じられたものの、この"鬼"は、聴覚もまた人並み外れているのだということを、浮かれて逃げる彼女はすっかり忘れていたらしい。
桜の大木の陰に隠れていたのをすぐさま見つけられ、手首をとられて逃げそこなった。あっという間もなく、"鬼"の分厚く逞しい胸と、木の幹とのあいだで板挟みにされてしまう。
「私、あんたからは、どうしても逃げられそうにないわね。目隠ししても、鼻をふさいでも、こうやってすぐ見つかっちゃうんだもん」
彼の目隠しをはずしながら、もうお手上げだというように、かごめは無邪気に笑っている。けれどその笑顔を見下ろす"鬼"の表情は、いつになく険しい。
──逃げられそうにない。
その言葉を胸の内で反芻しているのだった。そしてそれはある種の呪いのように、彼がしばし忘れかけていたことをまざまざと思い起こさせた。
もし、かごめが本当にここから"逃げよう"とするならば、彼女は、彼には追いかけようのない場所まで、逃げおおせることができるのだ。──ちょうどあの三年間、彼が手も足も出せずに、ただじりじりと胸を焦がしてばかりいた時のように。
「……犬夜叉?」
"鬼"は、何も知らずに今もこうして可愛らしい顔を向けてくるかごめを、唐突に滅茶苦茶にしてしまいたい衝動に駆られた。
名を呼ぼうとするその口を、唇で塞いでしまいたい。その、整然と着付けられた衿をくつろげ、白い首筋や胸元に顔をうずめて、花びらのような刻印を散らしたい。一生、他の誰にも顔向けできなくなるような体にしてしまいたい。歯の浮くような言葉をその耳元に囁きながら、獣じみた後ろどりで、何度も何度も──
「あっ……」
目隠しをほどこされたかごめが、驚いて声をこぼした。今度は彼女が目隠し鬼になる番なのだ。
"鬼"は、抑揚のない声で聞く。
「かごめ、──おまえ、おれのことが好きか?」
「なによ、急にどうしたの?」
目を覆われているかごめは、自分を見つめる双眸が、いかに危うい欲望にまみれているかを知らない。これまで彼女の眼に映っていた彼は、"鬼"などではなかったからだ。
「好きに決まってる。そうじゃなかったら、今、私はここにいないわ」
「だったら」
畳みかける彼の声が、一層低くなる。
「おれが何をしても、逃げずにいてくれるか?」
「……?今度は、私が鬼になる番でしょ?」
"鬼"は、目隠しされたままのかごめに濃い影を落とした。見えざる瞳にすべてを見透かされる憂いを拭い去れないが、彼女に対して抱いているさまざまな感情を、余すことなく知らしめたい──というさかしまの欲求はなお抗いがたい。
「──絶対に逃がさねえ」
「え?」
うっかりこぼれた本音を、かごめが拾った。薄紅の花びらが散りかう木の暗れで、"鬼"は、彼女に覆いかぶさるようにして身を寄せる。彼女の両脚の間に膝を割り入れ、こわばった肩を落ち着かせるように──あるいはつなぎ留めておくために、手を添える。
「今度はおまえが、おれを捕まえる番だ。──かごめ」