忘れ貝




 涙は流れない。女々しく泣いたところで、彼が今すぐここへ駆けつけるはずもないことは、とうに知っている。
 何より、彼女自身が嫌だった。これしきのことで惨めになりたくない。傷ついているということを認めたくない。──意中のひとのもとへすっ跳んで行った相手の、後ろ髪を引くようなみっともない真似はしたくない。
 できる限り毅然としていたかった。私は何事にも動じないのだということを知らしめたかった。敵にも、仲間にも、あの巫女にも、あの半妖にも、──自分自身にも。そのためには、もっと感情をうまく制御しなければならない。ささいなことに心揺らいでいてはいけないのだ。
 閑静な海辺を歩きながら、かごめはひとまず頭を空にしようと、目を閉じた。
 砂浜に打ち寄せるさざれ波の音は、心に溜まった悪いものを洗い流してくれるかのようだった。かごめは禊をするような新鮮な心持ちで、時間をかけて深く息を吸って、吐いた。
「……?」
 ふいに、裸足の爪先に何かが当たった。目を開けて足もとを見下ろすと、砂に埋もれて、白く光る一枚の貝殻が落ちている。
 小さいころ、夏休みに訪れた浜辺できれいなシーグラスを見つけ、はしゃいだ時のことが脳裏をよぎり、かごめは思わず微笑んだ。
「七宝ちゃんに、あげようかな」
 次の瞬間には、何の気なしに、しゃがんでそれを拾い上げていた。

 ──しばらくひとりにしてほしい。彼女の背中がそう訴えていたので、弥勒も珊瑚も七宝も、後を追いかけることはしなかった。彼らにできることはただ、焚火をかこって、いつとも知れぬその帰りを待つことのみ。
 一行は口数も少なく留守をつとめていたが、草陰から物音がすると、一斉に顔を上げた。
「……かごめぇ!」
 七宝が早くも半泣きになって、灌木の陰から現れたかごめの胸にひしと抱きついた。かごめは一瞬驚いたように目を見開いたかと思うと、そのやわらかな栗毛に頬擦りしながら、菩薩のように優しい顔をして笑った。
「ごめんね、七宝ちゃん。心配した?」
「心配でたまらなかったぞ!まったく、犬夜叉の大馬鹿者めが、また性懲りもなくかごめを傷つけおって──」
 かごめは首を傾げた。
「犬夜叉が私を傷つけた?」
「そうじゃろう!いつまでもいつまでも、かごめと桔梗の間を、フラフラと……」
 七宝が尻すぼみになった言葉を途切れさせた。かごめを見上げる顔つきが何やら不安げになる。傍らでいきさつを見守っていた弥勒と珊瑚も、いよいよ腰を上げ、まじまじとかごめの顔を凝視した。
 何かがおかしい。
「──犬夜叉が、私を傷つけた?」
 かごめは、同じ言葉を繰り返す。なぜ彼女の仲間がそんなことを言い出すのか、不思議でたまらないという様子だった。

 後ろめたさをありありと顔に浮かべて帰還した犬夜叉を、仲間達は戸惑いもあらわに出迎えた。
「犬夜叉。あんた、とうとうかごめちゃんに、愛想尽かされたかも……」
 珊瑚がなにやら諦めたような表情で声をかけてきた時、彼にはまだ、四魂の玉のひとかけらほども状況が理解できていなかった。
 だから、かごめと対面した瞬間──その、あたかも路傍の石を目にするかのごとき無関心さを彼女の顔に見て取った瞬間、総身からすうっと血の気が引くのがわかった。
「おかえりなさい」
 かごめは笑う。いつもの親しみのこもった笑い方ではなく、誰にでも向けることのできる愛想笑いだ。その場に凍りついている犬夜叉から目を逸らし、今度は打って変わった、あたたかい笑顔を腕に抱いている七宝に向ける。
「あ、そうだ。七宝ちゃん、プレゼントがあるの」
 思わず、犬夜叉はその肩を掴んでいた。かごめの制服のスカートのポケットから、はずみで小さな貝殻がいくつかこぼれ落ちた。
「なに?」
 と問うかごめの視線は、今や煙たいものを見るかのようだ。
「かごめ。おれは──」
 生唾を飲み、犬夜叉は白状した。
「──すまねえ。桔梗と、会ってきた」
「それで?」
「それで……?」
「桔梗と恋人同士なんでしょ。だったら会うのは当然だし、私に謝る必要なんてないじゃない」
 犬夜叉は呆気にとられ、かごめの、心底不思議そうな顔を見つめ返した。
 ──これは本当に、あのかごめだろうか。姿かたちも声も匂いも同じだが、まったく知らない女と対面しているような心もとない気分だった。
「かごめ……怒ってるのか?また、おれがおまえを置いていったから──」
「さっきからなにを言ってるの?──私が怒ってるように見える?」
 可笑しそうにかごめは一蹴する。
 犬夜叉の胸に、言いようのない不安がさざれ波となって押し寄せた。喘ぐように、彼はうったえかけた。
「いっそのこと、泣いて怒ってくれた方がよっぽどいい。──いつもみてえに、おすわり、って言ってくれよ」
 哀願に近い言葉を、しかしかごめは受け入れなかった。
「どうして私が?あなたは何も悪いことなんてしてないし、私はあなたのこと、何とも思ってないのに」

 どうしたものか、と焚火越しに仲間を見やりながら弥勒は嘆息する。樫の木に寄りかかって呆然としている犬夜叉には、この世の終わりのような悲愴感がただよっていた。
「二兎を追う者は一兎をも得ず、と言いますからねぇ……」
「法師さま、それを言ったら……」
 眠れないのは珊瑚も同じだった。膝を抱えてまんじりともせずに焚火を眺めている。七宝とてすっかり目が冴えてしまっている。かごめにもらった小さな貝殻を焚火のそばに並べ、なにやらもの寂しそうにひとりで遊んでいた。かごめだけが、寝袋にくるまって安眠を享受している。ささいな憂いごとのひとつも感じさせぬ、安らかな寝顔だ。
「かごめさまは、まるで犬夜叉のことを忘れてしまわれたかのようだ。犬夜叉が居なくなったと知った時には、あれほど傷ついておられたのに」
「うん……。ひとりで海に行ってしまって、戻ってきた時には、別人みたいにすっきりした顔になっていたよね。なんて言うかこう、憑き物が落ちたみたいにさ」
 浜辺で何かあったのだろうか。考えあぐねる弥勒は、きらりと光るまぶしいものを横目でとらえた。見ると、それは七宝の遊んでいる貝殻のひとつだった。かごめが海で拾ってきたと言っていた。
「……ん?これは」
 弥勒は白く光る貝殻に手を伸ばした。しばらく焚火にかざしてじっと観察していたが、もしや、とあることに思い至った。
「これは、"忘れ貝"ではないか?」
「忘れ貝?と、いうと……」
 珊瑚も目を見開いた。
 仲間達が手がかりをつかんだと察し、絶望の淵にいた犬夜叉が必死の形相で詰め寄ってきた。
「──忘れ貝だと?なんだ、それは」
 
 夜の海原には魔物が棲んでいる。人間達はそう信じて近寄りたがらないというが、彼にはまったく関わりのないことだ。
 夜目のきく犬夜叉は筒闇つつやみのとばりをかき分けつつ、黒々とした砂浜の上を歩いていた。探し物をしながら、その心に去来するのはかごめへの申し訳なさと、深い後悔と、愚かな自分への憤りだった。
「かごめ。……おれを忘れたいと思うほど、傷ついていたんだな」
 忘れ貝とは、つらい恋を忘れさせる力を持つ貝殻なのだという。偶然拾ったのか、かごめが引き寄せたのかは、わからない。──ともあれ、貝殻はみごとにかごめの憂いを取り除いてみせたわけだ。憑き物が落ちたようだった、と珊瑚が言っていたことを犬夜叉は思い出す。かごめにとって、彼との縁は、憑き物のようにまがまがしいものに落ちぶれてしまったのだろうか。
 しらしらと夜明けが海のかなたにきざしてくる。犬夜叉は焦りと同時に恐怖を覚えた。探し物はなかなか見つからなかった。このままでは、かごめを永遠に失ってしまうかもしれない。
 日が昇ると七宝が来て、手伝いを申し出てきた。犬夜叉は自分で探さなければ意味がないと、その申し出をことわった。弥勒も珊瑚もかわるがわる様子を見にきたが、砂浜に這いつくばって探しまわる犬夜叉の返事は変わらなかった。
 やがて太陽は傾き、空のかなたに沈んでいった。海から上がり、浜辺で星満天ほしまんてんを見上げている犬夜叉の背後に、人の気配が近づいてきた。
「一日中ずっと、考えてた」
 それが誰であるかは星を見るよりも明らかだったから、犬夜叉は振り返らずに言葉をつないだ。
「おまえにとって、おれは思い出すだけの価値がある男なのか?って。おれを忘れたままでいる方が、ひょっとするとおまえにとっては──」
 言葉を切り、考えたくないというように犬夜叉が左右へ首を振る。銀髪から、まだ乾ききらない海水のしずくがしたたり落ちた。
「……かごめ。一日中、ずっとおまえに会いたかった」
 ゆっくりと振り向いた犬夜叉の瞳に、かすかな星明かりに照らされたかごめの顔が映り込んだ。彼の待ち焦がれた、あのあたたかい笑顔ではない。その表情は相変わらず、遠くの景色をうち眺めるようによそよそしく、冷淡だった。だが──彼女の両目からは、いつしか輝くような涙が流れ落ちていた。
「私は会いたくなんてなかった」
 犬夜叉は立ち上がり、まっすぐにかごめに向かって歩いていく。かごめは後ずさったが、犬夜叉に手を取られて逃げそこなった。
「かごめ」
 犬夜叉がかごめの手に自分の手を重ねた。
 彼女が持っていた貝殻と、彼が握りしめていた貝殻とが、カチッと音を立てて合わさった。
 かごめが、うつむいた。
「おれはこれからも、桔梗に会いに行くだろう。何回でも──そしてかごめ、おまえのところに帰ってくる」
 言ったそばから、犬夜叉は、叱られる前の子どものような顔つきになる。
「……だめか?」
 心もとなげにたずねる彼の手が、握り返された。顔を伏せていたかごめが、ゆっくりと頭を持ち上げ──
 まだ涙の乾かぬ瞳を、やさしく細めた。
 


2019.03.25


×
「#甘々」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -