さかしま
水かさが増してきた。つい先程まで、スニーカーと靴下を脱いで足を浸す程度だったものが、今はもうふくらはぎの中ぐらいまで達している。
夕暮れ時が近いのだと悟った千尋はだんだん口数が減っていった。
「──そろそろ、風邪をひいてしまうよ」
石段の上から静かな声がかかる。ハクはその場所から、千尋のいる水の中まで下りては来られないから、蝦蟇の石像の側にずっと立っていた。
千尋は、黙って水を蹴っている。
風の吹くたびに遠くの時計台が轟音を立てているのは、呼び戻されているからなのか、引き止められているからなのか──。
「ご両親が、千尋のことを心配するよ」
「……ううん。心配なんてしないよ、だって」
父親は仕事でしょっちゅう留守、母親は幼い妹にかかりきり。それぞれが手一杯で、そこそこ大人になった長女のことなど気にかけてはいない。
「ハク。──わたし、帰らなくちゃいけない?」
膝まで水に浸かりながら、千尋は冗談めかしてたずねた。
やや間を置いてから、彼にしてはめずらしいことに、素っ気ないともとれる返事が返ってくる。
「千尋のしたいようにすればいいよ」
「……。ハク、なんか冷たいね」
突き放されたようでしょげる千尋に、真面目な顔でハクは告げる。
「こればかりは、千尋が自分で決めなくてはいけないことだから」
そうしたやり取りのあいだにも、水位は刻一刻と上がってくる。腰まで水に浸かった千尋は、靴下を詰めたスニーカーが少し離れたところに浮かんでいるのを、しばらく見ていた。
大通り添いの店の食べ物を勝手に口にでもしないかぎり、この街は、千尋のような訪問者に害をなすことはないのかもしれない。──それでも、石段を上がっていく勇気は湧いてこなかった。
「ごめん、ハ──」
呼びかけた千尋の声が途切れる。
不思議の街を背にしてたたずむハクは、石段に濃い影を落としながら笑っていた。
日没が、もう街角まで迫っている。
「……ハク?」
「悩むのに時間をかけ過ぎてしまったね。もう、帰るしかないようだよ」
──私の元へ。
石段の上に、湿った千尋のスニーカーがきちんと揃えて置いてある。千尋自身も、目には見えない力が働いたかのように、水の中からするりと引き上げられていた。
「可哀想に。こんなに冷えてしまって」
ハクは自分の衣服を千尋の肩に着せかけた。温かい愛情のこもった抱擁に、千尋の震えはますます止まらなくなる。
2019.03.22