三界ハイツ

201号室


 年の瀬も押し迫る師走の朝。
 ようやく日が昇り始めたかという頃合に、三界ハイツの古びた階段を昇る足音が聞こえてきた。
 もちろん、このアパートで唯一の(生身の)住人であるりんねは新聞など購読していないので、新聞配達員ではない。かといって、しっかりと足音がするので、当然依頼人の幽霊でもない。
 こうして訪ねてくるのはただ一人。
 連日徹夜続きの疲れもどこへやら、りんねは今にもスキップし始めそうな足取りで、壊れかけのドアの蝶番をひねる。
「おはよう、六道くん」
 ドアが開いたと同時に、暖かい春風が部屋の中へ吹き込んできたかのようだった。凍えそうな寒さも忘れ、りんねはほくほく顔で「おはよう」を返す。
 許婚の桜がかじかむ両手をすり合わせている。
 左手の薬指に、真新しい指輪がきらりと光り輝いている。彼が嵌めている指輪と、同じものだ。
「今朝は昨日より寒いね。……また徹夜だった?」
 その左手が伸びてきて、ひやりとした指先がりんねの目の下に触れた。きっと寝不足でひどい隈ができているのだろう。
 昔は心配されても「大丈夫だ」と強がってみせたものだが、今は無性に甘えたくなる。
「五日連続の深夜案件だ。さすがに昨日はきつかったな」
「……五日も徹夜続き?どうりで死相が出てると思ったよ」
「今日の案件は、向こうで六文が全部引き受けてくれることになっているんだ。たまには休まないと、身体がもたないからな」
 桜は心配そうに彼の顔を見上げていたが、今日こそはりんねが休みを取ったと知り、ほっと表情が緩んだ。
「良かった。私はこれから仕事だけど、終わったらまたこっちに来るよ」
「仕事前にわざわざ来てもらってすまん。その、……真宮桜も無理はするなよ」
 まだ名前を呼ぶのがこそばゆいので、一瞬ためらうものの、結局いつも通りに呼んでしまう。
 いつになったら思い切りがつくんだと、りんねが内心で自分を責めている間にも、桜は家から持ってきた料理を手際よくちゃぶ台の上に広げていた。
 慌てて支度を手伝う。
「六道くんと一緒に朝ごはんが食べたくて、早起きしちゃった」
 朝ごはんよりも、そんなことを言って笑う彼女が食べてしまいたいほど可愛くて、彼の心がどきりと高鳴る。
「そ……そうか」
「うん。無理なんてしてないから、全然大丈夫だよ」
 魔法瓶からコポコポと注がれる味噌汁の香りが、殺風景な部屋の中にほんのりと立ち込める。卵焼きの入ったタッパーの底がまだ温かい。りんねはほうっと息をついた。幽霊屋敷と呼ばれるこのアパートが、人の息づく空間に感じられる。
「六道くんの顔を見たら一日、頑張れる気がするよ」
 凌霄花の蔓が張った窓辺に、一片の初雪がちらついた。



2018.12.02
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