川神 の涙
「さあ行きな。振り向かないで──」
少年は静まり返った飲食街を歩く。
つい先程、あの少女の手を取って駆けた道。一刻も早く帰してやりたくて、逸っていた心も今は落ち着きを取り戻している。
──これで、良かったんだ。
数珠つなぎの提灯が地面にゆらゆらと影を落としている。この街並みも、もう見納めだろう。
人目の多い正面玄関から帰るつもりはなかった。ハクは元来た道を逸れて狭い裏道に入った。白い竜の姿となり、油屋の最上階をめざす。
「……ふん。随分と早かったじゃないか」
魔女は予期していたように、すべてのガラス窓を開け放っていた。少年の姿に戻ったハクは覚悟を決めて目を閉じた。
「湯婆婆様。──約束を今ここで果たします」
「……約束、ねえ」
カラン、と彼の足元に何かが無造作に投げて寄越された。手のひらに収まるほど小さな青いガラスの瓶だった。
かがんで拾い上げた瞬間、まるで水を打ったかのように、ハクの脳裏に初めてこの世界へ来た日の記憶が流れ込んできた。
──私の川を取り戻したいのです。
──だったら、ここであたしの手伝いをしな。もし役に立つようなら、方法を教えてやろう。
──川が元に戻るのですか。
──一度失くしたものは戻らない。でも、形を変えてよみがえらせることはできる。
「これは、涙壺といいましたか……」
ハクの声が震えた。魔女は背を向けている。
「言っただろう。竜の涙はほんの一滴さえ川の水そのものだ。──お前に涙をよみがえらせたあの子に、感謝するんだね」
言われて初めて、ハクは頬を伝い落ちるものに気がついた。千尋にまた会えるという無上の喜びが涙となって瞳に溢れていた。
「お前が涙を流した時、この涙壺をやるという約束だったからね。──お前の勝ちだ、ハク」
ハクは涙壺に自分の涙をひとしずく溜めた。懐かしい川のせせらぎがどこかから聞こえてくるような気がした。
──どんな姿でもいい、もう一度トンネルの向こうにいるあの少女と出会えるのなら、他に望むものはなかった。
2018.12.27