ポインセチア | ナノ

ポインセチア


 あの鉢に咲く大輪の花のような真紅の葉に、いつも目を惹き付けられる。

 彼女がその誘惑に負けたのはクリスマス当日、白昼の街中で花屋の前を通り過ぎようとした時だった。いつもはその鉢に目を奪われながらも手を伸ばすことはなかった。それなのに、なぜかその日に限ってそうせずにはいられなかった。
 指先で触れた葉は冷たくしっとりとしていた。凍てつくような外気に長いことさらされていたせいだろう、葉の表面にうっすらと霜がかぶっている。
「ポインセチアって、クリスマスらしくていいわよね。赤くてとってもきれい」
 朗らかにそう言ったのは彼女の母。その言葉に背を押されたかのように、彼女は母を振り返って微笑んだ。
「ママ、私、これ買ってくるね」

 真宮家のクリスマスは穏やかに明けていく。クリスマスケーキやチキンやポットパイなど、典型的なクリスマス料理が並べられた食卓を親子三人で囲む。テレビからは陽気なポップソングやクリスマキャロルが流れ、色とりどりのツリーの明かりがゆっくりと点滅する。
 桜はクリームがたっぷりのケーキを頬張りながら、机の上に飾られたポインセチアを眺めていた。この植物の鮮やかな赤はクリスマスに色を添えるのに相応しい。その鉢があるだけで、普段より格段に食卓が華やいで見える。
 ワインをあおり饒舌に語り合う両親を桜はちらりと一瞥した。それから、皿の上に残った、砂糖で作られた桃色のサンタクロースを見つめる。そしてもう一度、両親を横目に見やる。
 ──六道くん、どうしてるかな。
 再びポインセチアに視線を戻して、桜は同級生のことを思った。指先で赤い葉に触れると、それは小さく揺れた。彼がそよ風に髪を揺らすのと少し似ていた。桜は思わず微笑んでしまう。
 童顔の砂糖菓子サンタが滑稽な姿勢で彼女を見上げている。彼のところには、サンタどころか、疫病神がやってきそうな予感がした。あのクラスメートと確執をもつ者は多い。つくづく不憫な少年である。
 桜はそっと席を離れた。キッチンの戸棚からいくつかタッパーを持ち出して、まだかなり残っている料理をきれいに詰めはじめる。彼女の母は今年も家族三人の胃袋には入りきらないほど多くのご馳走を用意していたので、少しくらい人様にお裾分けをしたところで減るものでもないのだった。
 グラスを手にしたまま、きょとんとした目で娘を見る両親。桜はにっこりと笑う。
「私、サンタさんになってこようかな」
 彼女の父は不思議そうに首を傾げたが、母は娘の行動の意味を察したようだった。テーブルにのりきらなかった冷蔵庫の作り置きも、持っていきなさいと促してくる。桜は母に手伝ってもらいながらタッパーや魔法瓶を紙袋に入れた。部屋で厚手のダッフルコートを着込み、マフラーを巻いてから外に出る。
 聖夜の空気はすがすがしい。濃紺の夜空には、イルミネーションも顔負けの無数の星明かりが散りばめられていた。

 クラブ棟の一室には蝋燭の明かりが灯されていた。足音を忍ばせながら桜は朽ちた階段をのぼっていく。聞き取りづらくはあったが、住人が誰かと言い争っているような声が聞こえてくる。
 桜は一瞬ためらったがドアノブに手をかけた。ドア越しに、いつもはあまり感情を露わにしないこの部屋の住人が珍しく声を荒げているのが聞いて取れる。どうやらお取込み中のようだった。
 だがせっかくこうして訪ねてきたのに、ドアの外に差し入れを置きっぱなしというのも興がない。桜は意を決して、やや大きめにノックをしてみる。
 部屋がしんと静まり返った。
「誰だ?」
 中から訝しむような同級生の声が聞こえ、桜はドアノブを一気に回した。
 照明器具や暖房設備といったものとは無縁の部屋は、相も変わらず薄暗く寒々しい。空き缶に立てられた蝋燭の侘しいことと言ったらない。
「真宮桜?」
 驚きを露わにした声でそう呼ぶのは、死神の鎌を構えた六道りんねだった。心底意外な来客だったのだろう、口をぽかんと開けて桜を見つめている。
 桜の視線は、彼のかたわらで、お気楽な笑みを浮かべている長身の男に移る。
「六道くんのおとうさん」
 鯖人は羽織の袖に手を差し入れ、愛息子と、たった今現れた少女とを交互に見比べている。赤い瞳が好奇心に輝いているのがわかる。
「そうだ。きみは確か、りんねを振った女の子だったね?」
 例の婚約騒動について触れているのだろう。
「振ったって、どういうことですか?」
 忘れようとしていた傷をえぐられた少年ががっくりと肩を落としているが、桜は気付いていない。
「きみはあの時、りんねの婚約指輪を受け取るのを断ったよね」
「それは……ああいう高価なものは、わけもなく受け取れませんから」
「そういうものかな?まあ、過ぎたことはもうどうでもいいんだ」
 息子と瓜二つの端整な顔が頭二つ分ほど高い位置から桜を見下ろしてくる。
「お嬢さん、うちの息子とは、ただのクラスメートなんだよね?」
 ただのクラスメート、という部分を殊更強調して念を押すように鯖人はきいてくる。

 かたわらのりんねは、「あれ」をまた聞かなきゃいけないのか、と絞首台に二度立たされたような気分で桜の返答を待っていた。
 クリスマスだというのに息子のささやかな幸せを祝福するどころか、進んで災厄をもたらそうとする父親に殺意さえ芽生えてくる。
 ──おやじ、いつか殺す。
 だが、そんな不穏な思いに駆られるりんねにとっては意外なことに、彼の想い人は口を閉ざしたままでいる。即答で肯定され何ら面白みのない関係性を暴露されるだろうと思っていただけに、その長すぎる「間」は予想外だった。
 どうやら彼女は答えを考えあぐねているようである。
 固唾を飲んで彼女の言葉を待つりんね。首を傾げてその顔を覗き込んだ父は、堪えきれずににんまりと笑った。
「どうやら無駄足だったみたいだ。一人息子にクリスマスのプレゼントをと思って、わざわざ訪ねてきたのに」
「何がプレゼントだ。恩着せがましい」
 足元に散らばる紙切れ、もとい婚姻届を至極迷惑そうに見下ろすりんね。
「堕魔死神の女子との婚姻届?こんなもの、嫌がらせでしかないだろう」
「でもりんね、お前彼女いないんだろう?だったらいいじゃないか、別に誰と結婚したって」
 悪びれもなく言ってのけた父に向けて、堪忍袋の緒がぶち切れたりんねが鎌を振るうのと、「あの、」と桜が割って入ったのとはほぼ同時だった。
「私、六道くんとクリスマスを祝いたくて、ここに来ました」
 それはまさに、鶴の一声だった。りんねは鎌を振り上げたまま硬直した。ゆれる蝋燭の明かりが彼女の顔をぼんやりと灯している。
 鯖人は眉を持ち上げた。
「きみ、りんねと付き合ってるの?」
 胃袋に鉛が落ちるような重々しい感覚をりんねはおぼえた。誰にも表情を見られないように深くうつむく。
 しかし、刑の執行を待つ囚人のような暗澹とした気持ちでいた彼の耳に飛び込んできた言葉は、にわかには信じがたいものだった。
「はい」
 簡潔な返答だった。はじかれたようにりんねは顔を上げる。桜が背筋を正して鯖人と見つめ合っている。その表情から迷いは微塵も感じられない。
「そうでもなかったら、クリスマスのこんな時間に、男の子の部屋を訪ねてきたりしないと思いますけど」
 桜は開けっ放しにしていたドアを閉めると、床に散らばった婚姻届を踏まないように器用によけながら、りんねのもとへ歩み寄ってくる。表情にこそ出さないものの頭の中がすっかり混乱しているりんねに、小首を傾げて可愛らしく微笑みかけてくる。
「来るのが遅くなってごめんね。今からでも、一緒にお祝いしよう?」
 なにやらおいしそうな匂いのする手提げ袋を少し掲げてみせながら彼女が言った。呆然としているりんねをよそに、畳の上の紙切れを寄せ集めてどかしてスペースをつくると、そこにタッパーや魔法瓶を並べていく。
「へえ?りんね、お前もなかなか隅に置けないやつだな」
 魔法のように次から次へと現れる料理の数々に、父はにやけ顔でりんねを小突いた。幸福感に水を差されたりんねは鎌を握り締めて力任せに振るう。からからと笑いながら父は息子の太刀筋をかわして、足元から旋風を巻き起こした。
 無数の婚姻届が風に巻き上げられていく。悪態をつく息子に父はほがらかな笑みを返した。
「ぼくの可愛い息子とその彼女さんに、メリークリスマス!」

 あの男はやはり災厄の種だとりんねは思う。頼むから、この人にだけは害を及ぼさないでくれ。
「迷惑をかけてすまん、真宮桜」
 りんねが土下座して謝ると、桜はタッパーの蓋を開けながら首を振った。
「勝手に遊びにきたのは私の方なんだし、六道くんが謝ることなんて何もないよ」
「いや、だが」
 一瞬りんねはどもるが、踏み込んでみたい欲望にはあらがえなかった。
「……おやじのせいで、嘘を言わせてしまったから」
「嘘?」
 りんねの頬がほんのりと薔薇色に薄付く。
「その……俺と付き合っているという嘘で、助けてくれたんだろう?」
 桜はしばらくりんねを見つめていた。りんねもややこそばゆくはあるが、彼女のことを瞬きもせずに見つめ返していた。
「やっぱり、嘘なのかなあ」
 彼女が疑問調で言う。何かを引き出すような、試すような眼差し。
「六道くんが嘘って言うなら、やっぱり嘘なのかもしれないね」
「え、いや」
 数分前の自分を、りんねは激しく呪いたくなった。
「俺はただ、真宮桜が嘘のつもりで言ったと思ったから、その……」
 しどろもどろに訴えて口ごもるりんねに、桜はくすくすと笑う。
 あの、恋の駆け引きのようなこそばゆい空気は、彼の不甲斐なさが台無しにしてしまったようだ。
 名残惜しいが、かといってみずから蒸し返す気概もない。
 彼女が笑うと、心がくすぐられるようだ。背中がむずむずして、落ち着きがなくなってしまう。
「じゃあ、今助けてあげたのは、私からのクリスマスプレゼントってことにしておいて」
 桜は鼻歌を歌いながら、割り箸を割った。
 ──プレゼントなら、他にもたくさんもらっている。
 りんねは心臓の高鳴りを気取られないように、そっと胸をおさえた。
 おいしい料理に舌鼓を打つ彼を見守りながら、桜はよく笑った。りんねはいつもよりほんの少し二人の距離が近いように思えた。肩と肩が触れても平気なふりをするのは、暖房設備のない真冬の部屋で震えを堪えるよりもはるかに難しい。
「メリークリスマス、六道くん」
 彼女が微笑みながら紙皿に乗せたケーキを差し出してくる。
 天使の祝福を一身に受けているような幸福感に満たされながら、少年はとろけるように甘いデザートを口に運んだ。

 きっと今日買ったあのポインセチアのせいだ、と桜は誰にともなく弁解する。
 こんなに甘やかしてしまいたくなるのは。
 目を輝かせながら料理をつつく同級生に思わず笑ってしまった。サンタクロースの気持ちが、少しだけわかるような気がした。





end.

(2011. Christmas)

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