闇夜に霜の降りるが如く
無数の鴉がけたたましい啼き声を上げながら、薄墨を流したような鈍色の空を旋回している。
──敵陣との死闘を尽くした合戦から、早三日。
饐えた死臭を放ち始めている夥しい数の骸を狙い、鴉の群れは絶えず地上に目を光らせている。
(──地獄ってやつは、この世にあるんだな)
己を狙う鴉を見上げながら、足軽は自嘲気味に笑う。
篠吉、齢二十一。
鉄砲隊として出陣したが、合戦中に敵の砲撃を食らい意識が吹っ飛んだ。退却の合図さえ聞こえず、合戦後は気絶したまま戦場へ捨て置かれた。だが仲間への恨みはない。立場が逆なら、自分も同じことをしただろう。
(おれを喰うつもりなのか?)
先程から一羽の鴉が彼に狙いを定めている。今にも襲いかからんとばかりに威嚇の啼き声を発している。激痛と空腹とで朦朧とする篠吉の瞳に、最早これまでかと諦念が浮かぶ。
──不意に、鴉が視界から掻き消えた。
目にも留まらぬ速さであった。
どこからともなく放たれた矢に射抜かれ、あっけなく絶命したのである。
「……まだ、生き残りがいたようだな」
篠吉はカッと目を見開き、声の主を探した。この戦場で己以外にまだ息のある人間が存在することが、俄かには信じ難かった。
──砂塵舞う戦場には到底そぐわぬ姿。弓を手にした年若い巫女が、こちらへ歩み寄ってくるのが見て取れる。
「……あんた、誰だ」
巫女は隻眼だった。能面のごとき無表情で、彼の傷を見下ろす。
「誰だと聞いたんだ」
「ここより峠を越えた村で、巫女をしている」
淡々と聞かれたことにだけ答え、竹筒を差し出してくる。三日ぶりの水を、篠吉は無心で飲み干した。
「……女に助けられるとは、ざまあねえな」
巫女は無言のまま、彼の側に腰を下ろした。
傷の手当を受け、自力で陣所に戻ってからも、篠吉は巫女のことが頭から離れない。
どうにももどかしく、夜中に馬防柵を越え、巫女が暮らす村まで会いに行った。
「この村へ何をしに来た?」
案の定、村に害をなされまいかと、巫女は大いに警戒した。
「命の恩人の名前くらいは聞いておこうと思ってな」
「……それしきのことで訪ねてきたと?」
「……悪いかよ」
ばつの悪い篠吉は顔を赤くする。巫女は大きな溜息をついた。
「帰れ」
にべもない返事だった。なおも執拗に篠吉が食い下がると、また一つ嘆息し、
「──楓」
致し方ないという表情で、ぽつりと己の名を打ち明けた。
楓には、姉がいたという。
その姉が亡くなり、村巫女の跡を継いだ。
幼くして兄を合戦で失い、兄と同じ足軽の道を選んだ篠吉には、楓の境遇が他人のものとは思えなかった。
「──私には、おねえさまのような霊力はない」
ある夜、弓を握り締めながら、楓は珍しく弱音を吐いた。
放った矢はすべて的を射ていたが、己が無力で歯痒いのだと、その表情が訴えかけていた。
「私は、おねえさまにはなれない」
篠吉は思わず手を伸ばすが、楓が触れることを許さない。巫女は心身共に清らかであるべきなのだと彼女は言う。
「おれと一緒にならないか」
面と向かって伝えたところで、頑固な楓が首を縦に振るはずもない。
されども篠吉は諦めずに村へ通い続けた。
泰山の雨垂れが石を穿つというように、楓の頑なな態度が少しずつ綻び始めた。
ある夜、篠吉は彼女の手を取った。
いつかの夜は、胸に抱き寄せた。
そして──
出陣することになったと、彼が告げた。
冬も間近の、霜の降りた晩秋の夜だった。
「楓がおれと一緒になるっていうなら、このまま銃を置いて、どっかへ逃げちまってもいいんだがなあ」
楓は逡巡した。そして自分が迷っているという事実に、己の心の弱さに愕然とした。
それを察したのか、あるいは初めから答えを求めてはいなかったのか──あの足軽は屈託なく笑うのだった。
「まあ、今はいいさ。一緒になるかどうかは、おれが帰ってきてから聞かせてくれよ」
彼は銃を構える仕草をした。火蓋を開き、引鉄をしぼる。鉄砲足軽として戦場を駆け回ってきた彼は、銃のことを熟知していた。弾を命中させるためには、いかなる場合も心を静めねばならぬという。──闇夜に霜の降りるが如く。
「破魔の矢を撃つ時も、同じだろ?」
ゆえに、どこにいても二人の心は一つなのだと、彼は伝えたかったのかもしれない。
──矢を放つたび、どこかでまだ銃声が聞こえるような気がする。
──振り返れば、あの屈託のない笑顔が今もそこにあるような気がする。
だが、それでも。
「楓さま、助けてくだせえ……」
耳を澄ませるのは、村人達の助けを求める声。
振り返るのは、悪しき物の怪達の気配。
「わしの村から、去れ」
己の心を静め、前だけを見据え、今日も隻眼の巫女は弓を引く。
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