願わくは
不治の病なのだと、涙ながらに姫の父は語った。
齢七つの姫君は、生まれながらに病弱だったという。乳児のみぎりより、一日の大半を寝所で過ごしてきた。唐渡りの治療と養生、霊験あらたかな加持祈祷、何一つとして功を奏すことはなかった。
「たからはずっと、巫女さまにお会いしとうございました」
かごめが初めて寝所へ参じた日、幼い宝姫は、半紙に薄墨を一滴落としたように、蒼白い顔にゆっくりと微笑みをにじませた。
寝物語に乳母が語り聞かせていた、大陸の古い御伽草子。あまたの妖魔を調伏し、人々を救う女道士の勇姿に憧れていたのだという。その女道士に会ってみたいと言い出した愛娘に、一計を案じた父は、武蔵の国に名高き「破魔の巫女」の話をした。たちまちその巫女は姫の憧れの人となった。
「かごめさまのように、強くなりたい……」
弱弱しい力でかごめの手を握り締めながら、姫は遠い目をしてつぶやいた。
かごめが邸へ通うようになってから、三月もの時が経っていた。姫の病状は悪化の一途を辿るばかりであり、薬師の見立てでは冬まではもたぬだろうとのことだった。
うつろな姫の視線が、静かに泣き濡れるかごめの隣で、彼女の肩を抱いて表情を曇らせている犬夜叉へと移った。初めこそ姫は彼を恐れていたが、近頃はすっかり打ち解けた表情で笑いかけるようになっていた。
「……あなたのような善き妖と心を通わせ、人びとを助け、誰よりも強く、生きてみとうございました」
枕辺に置かれた百目蝋燭の灯りが、心もとなく揺らいでいる。幼い姫の命も、いまや風前の灯火であった。
「かごめさまから……弓を習ってみたい。犬夜叉さまからは、けんかの仕方を──。今度こそ、強く、丈夫な子になれるように」
そして、いつか旅をしてみたい。
たくさんの友達を作ってみたい。
誰かと恋をしてみたい。
子を産み、育ててみたい──。
尽きることのない夢物語のように、姫は訥々と語り聞かせた。普段はかごめや犬夜叉が語部だったが、この日だけは違った。姫は、いつになく饒舌だった。
「もう喋るな。……あんまり喋ると、疲れるぞ」
たまらずに、犬夜叉は姫の額を撫でた。わが子を失うかのような胸の痛みに、唇をきつく噛んだ。
「かごめさま……。かごめさま、そこにおいでですか?」
熱にうなされた姫は、一晩中譫言をくりかえした。意識が朦朧とし、もはや傍に誰がいるのかさえわからなかった。
「ここにいるわ」
その度に、かごめは涙を落としながら、痩せ細った姫の身体を優しく抱き締めるのだった。
「ずっと、あなたの傍にいるからね……」
金の穂波が秋風にさざめいている。
朝方は小糠雨が降ったが、昼になると雲の隙間から青空が覗きはじめた。空高く浮かぶちぎれ雲が、大地にまだらの影を落としている。
畦道を駆けて蜻蛉を追いかけている子供たちを、犬夜叉は目を細めて見守った。
「元気だな。子供ってやつは」
「うん。見てるこっちまで、元気になる気がしない?」
夫の腕に頭をもたれて、かごめは口元をほころばせる。こうして子供たちが無邪気に遊ぶ姿を見ていると、時々泣いてしまいそうになる。
その気配を察した犬夜叉が、子供たちから視線を移した。その目元がまた一段と和らいだ。
「元気になるのに、泣くのか?」
「……なんだか、嬉しくて」
「まあ、今のうちに思いっきり泣いとけ。あいつらが戻ってきたら、おれが泣かせたと思って責められるからな」
かごめは笑いながら、火鼠の衣に顔を埋めた。犬夜叉が背中に手を添えてくれる。そうしていると、心が落ち着いた。
「……私、みんなに思われるほど、強くなんてないのかも」
「本当の強さっていうのは」
少し考えてから、犬夜叉は続けた。
「自分に正直になることかもしれねえな。かごめみたいに」
「……私みたいに?」
「笑う時は笑って、泣く時は泣くってことだよ」
犬夜叉は、かごめの頬に残る涙の跡を指でぬぐった。こういう彼だから、つい甘えてしまいたくなる。
「誰にでもできることじゃねえぞ。それって」
「でも、それって、なんか子供みたいじゃない?」
「……そーかあ?」
額を突き合わせて笑っていると、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。括り緒の袴を膝の上までたくし上げた娘が、満面の笑みで走ってくる。
「母上、父上、蜻蛉をつかまえたの!見て、見てっ」
全速力で駆けてくるのを、しゃがんだ犬夜叉がしっかりと抱きとめた。
「あぶねえな。あんまり走り回ってると、そのうちすっ転ぶぞ?」
「だいじょーぶ!」
ほどなくして追いついた息子が、あっという間もなく妹の背中に猛突進してきた。さすがの犬夜叉も不意をつかれ、親子三人草の上にごろりと寝転がる。
「──この、くそガキ!」
「わーっ、父上が怒ったぁ!」
「きゃー!」
両腕にそれぞれはしゃぐ息子と娘を抱きながら、犬夜叉は大口を開けて笑った。
「かごめ。こいつらよりも手ごわい敵は、もう二度と現れねえだろうな」
思わず吹き出すかごめに向かって、
母上、と娘が手を伸ばした。
「母上も、こっちにきて?」
弓を握り始めたばかりの手のひらには、まめができている。
物心ついた時から、娘は母の跡を継いで巫女になりたいと言っていた。弓も、けんかも、この娘は習いたいことにはなんでも果敢に挑戦した。かごめの予想が正しければ──きっといつの日か、旅をしてみたいと言い出すだろう。そしてたくさんの友達を作るだろう。いずれは誰かと恋をして、子を産み育てていくのだろう。
「母上」
屈託のない笑顔が、生き生きと輝いている。
──あなたは、私のかけがえのない宝。
愛娘の小さな手を、かごめは強く握り返した。
2018.9.29
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -