十 六 夜
白い竜が、夜空を飛翔する夢を見る。
まるで誰かを捜し求めているかのように、薄雲や星々の合間をかいくぐりながら、その竜は絶えず地上へ視線をめぐらせている。
──そして千尋は、来る夜も来る夜も、その竜を見上げながら、自分の居場所を知らせようとする。
だが──思い出せないのだ。
あの白い竜の名を、いつかどこかで教えてもらったはずのその名を、──どうしても声に出して呼ぶことができない。
「誰、だったっけ……」
部屋の窓を開け、千尋は宵闇に沈む外の世界をぼんやりと見下ろしている。
鬱蒼と生い茂る木々の合間から、時折、野鳥の微かな鳴き声がこだまする。十五夜を越えた今日も、夜空は無数の砂金をばら撒いたように燦然と輝いているが、千尋は心ここにあらずの表情で深い溜息をつく。
──記憶というものは、時がそうであるように、川の流れにも似ていた。どれほどゆるやかに流れているようでも、着実に今の自分から遠ざかっていき、いずれは見失ってしまう。
(わたしは、何から遠ざかってしまったんだろう?)
満月の夜には必ず夢を見る。──きっとあの竜が、空の最も明るい夜に、彼女を訪ねて来るのだろう。
月明かりが部屋の中にまで差し込んでくる。千尋はふと机の上へ視線を向けた。一等星のようにちらちらと光っているのは、お菓子の空き缶を宝物箱に見立てたものだ。
少し錆びた蓋を開けてみると、子供時代に捨てられずにしまい込んだ「宝物」の数々が現れた。その中で一際目に留まるのは、紫の紐で編み込まれた髪留めだった。気に入っていたのに、中学生になって髪を切ってからは使わなくなったものだ。
それを手首に通して、千尋は目を閉じた。
──ほら、言っただろう?
どこか懐かしい老婆の声が、頭の片隅で優しく囁いた。
──一度あったことは、忘れないものさ。
時計の針が逆さに回り始めたように、川の流れが下流から上流に向かって戻ってくるように、目まぐるしく彼女の脳裏に失われた記憶がよみがえる。
懐かしい少年がすぐ側で彼女の名を呼ぶ。──白い水干、青の括り袴。あの竜と同じ深緑の瞳。つい昨日記憶した姿のように、彼の色彩は鮮やかだった。
居ても立ってもいられなくなり、窓辺から身を乗り出して、千尋は声をかぎりに叫んだ。
「ハク──……コハク!──わたし、ここにいるよ!」
月をさえぎる薄雲の向こうから、流星のように尾を引きながら、白く輝くものが流れ落ちてくる。
──千尋は大きく腕を広げて、それを受けとめた。
「ああ……ハク。会いたかった」
頬をすり寄せ、涙をこぼしながら白い竜を抱き締める。目を閉じた竜の眦からも、滴り落ちるきらめきがあった。
「千尋」
竜は窓辺に降り立つや、たちまちあの懐かしい少年の姿に変化する。愛おしむような眼差しは、まるで変わらない。
「──ありがとう。思い出してくれて」
「ううん……。本当は、忘れてしまっていたの。ついさっきまで」
「それでも、千尋は覚えていてくれたよ」
涙を拭った千尋が笑いながら手を伸ばすと、突然、ハクの姿が幻のようにおぼろげに薄れ始めた。
「──ハク?」
行かなければ、と、夜空を仰いで彼は言った。
千尋の両目が、にわかにまた潤み出す。
「……どうして?わたしを置いて、どこへ行くの?」
「どこにも──千尋を置いては行かないよ」
ハクはこのうえなく満ち足りた表情で、変わらぬ優しい眼差しで、千尋を見つめている。
「いつも傍にいる。千尋が生きているかぎり、私は、どこにも消えたりしないよ」
だから、おやすみ──と。子守唄のように穏やかに、魔法の終わりを告げるような静けさで、少年は囁きかけた。
千尋の手首から、光り輝く髪留めをそっと外しながら。
2018.9.25
お題ボックスより