沸々と湧き上がる苛立ちを隠そうともせず、少年は舌打ちする。
──これだから、人間は当てにならねえ。
昨夜とて、一睡もしなかった。一刻も早く、砕け散った四魂のかけらを探しに行きたかったからだ。だが、渓流のようにはやる心をどうにか抑えて夜明けを待った。旅の同行者が、十分な睡眠をとらなければ翌朝歩くことさえままならない、脆弱な人間の小娘に過ぎないせいである。
そういうわけで、東の稜線に朝日が白く輝き出すのを待ちかねたように、老巫女の家へやってきた。
だが、菰を引き上げて犬夜叉を出迎えたのは、彼が望む相手ではなかった。
「どうも昨夜から具合が良くないようだ。今日はゆっくり休ませておやり」
あらためて、怪訝な顔をした楓が釘を刺す。
犬夜叉は、到底納得できなかった。
「昨日まではピンピンしてたじゃねえか」
「おまえに迷惑がかかると思って、無理をしていたのであろうよ」
「けっ。あのふてぶてしい女がそんな玉かよ。本当はかけら探しが面倒で、仮病でも使ってるんじゃねえのか?」
「まったく──おまえというやつは。少しはかごめを思い遣ってやらぬか」
老巫女の眉間にさらに深く皺が刻み込まれた。
「あの娘が体を壊せば、こうして何もかも立ち行かなくなるのだぞ。そのことがまだわからぬのか?」
「……」
「かごめはか弱い人間の娘。労わってやらねばならぬものを」
犬夜叉はぐうの音も出ずに黙り込む。四魂のかけらを探すには、彼女の霊力が頼みであることは、否定のしようがない事実である。
「病は気からともいう。おまえがやかましくがなり立てていては、治るはずのものもいつまで経っても治らぬぞ?」
「ったく。……わかったよ!」
このままかごめの不調が長引けば、一番困るのは、誰あろう彼自身だ。もどかしいことこのうえないが、ここは譲歩するしかない。
彼が態度を軟化させたのを悟り、楓の表情もまた和らいだ。
「──ときに犬夜叉。あいにくだが、わしは今日これから隣村まで出張らねばならない。そこでひとつ頼まれてくれるか?」
「なんだよ」
どんな無理難題を言われるかと身構える犬夜叉に、楓は空の木桶を押し付ける。
「今日はおまえがかごめに付き添っていてやれ」
……沈黙。
一度は落ち着いたかのように思われた彼だが、またも気色ばむ。
「なんでおれが?」
「かごめはおまえの相方ではないか。どうせ暇なのだから、つきっきりで看病しておやり」
「けっ。ガキのお守りじゃあるまいし……」
「つべこべ言わずにとっとと水を汲んで来んか。……それとも、言霊の念珠をもうひとつ増やされたいか?」
鬼瓦のような顔で脅してくる楓に、すさまじい圧を感じた犬夜叉は反射的にざざっと後ずさった。
「──ちくしょう!覚えてやがれ、ばばあっ」
土の上に転がった桶をひったくるようにして、小川が流れる森の方へ駆けていく。
横暴非道な老巫女への恨み言をつらつらと口にしながら、浅瀬で清らかな水を汲み、ついでに川魚などもつかまえて、戻ってみれば楓はすでに出かけたあとのようだった。
「ったく。こき使いやがって……」
土間にあがりこみ、板敷の床にどっかりと腰を下ろす。
その物音で目を覚ましたかごめが、少し首を傾けた。
「……誰?」
犬夜叉は火打石をとり、消えかけている囲炉裏の火を熾した。
朝日がやんわりと差し込んでくるが、家の中はほの暗く、やや冷えかかっている。
揺れる炎越しに、寝起きのうつろな目でこちらを見つめているかごめと視線がかち合った。
「犬夜叉。……ここで何してるの?」
仮病、というわけではなさそうだった。顔色が悪く、声にはいつもの張りがない。
犬夜叉がなかなか口を開かないので、小さな溜息をつく。
「楓ばあちゃんが言うには、風邪だって。ちょっと寝れば、良くなると思う……」
ごめんね、と、最後にぽつりと付け足した。
「怒ってるでしょ。四魂のかけら、探せなくて」
「──まあな」
「やっぱり?そうだよね……」
思いのほか、かごめが気弱になっているので、犬夜叉はどう声をかけたらいいのかわからない。
たとえ寝込んでいたとしても、いつもの威勢があれば、小言のひとつも言ってやるつもりでいたのだが。
たかが風邪ごときで、気持ちが相当参ってしまっているようだ。
いくら彼とて、気落ちしている相手を責め立てる気にはなれない。
「……向こうではね。風邪をひくと、いつもママが看病してくれるの」
目を閉じて、かごめはささやいた。
「こんな年になっても、心細くなるものなのね。こういう時って……。自分が無力で、ちっぽけで、ひとりぼっちに思えてしょうがないの」
犬夜叉は、串刺しにした魚を炙りながら、思わず、フ、と笑っていた。
あざ笑ったのではない。──かごめの気持ちが、なんとなくわかるような気がしたのだ。
新月の日には、彼自身も、そうした言いようのない不安を抱えて夜を明かすのだから。
「おまえらしくねえな」
「そう……かな?」
「ああ。おまえが持ってる四魂のかけら、今なら簡単にぶん盗れるだろうな」
「え」
かごめが胸元に手を遣る。
「ぶん盗るつもりなの?」
「そうじゃなくて」
犬夜叉は、まどろっこしいとばかりに、がしがしと後ろ頭を掻いた。
「……だから、ここに居てやる、って言ってるんでい」
うぬぼれるな、かけらを守るためだからな、と、何度も念を押す。
親切心を起こした、などと思われてはむず痒くてたまらない。
──慣れ合いなんて、ごめんだ。
けれど、彼がむきになればなるほど、かごめは口元がにやけるのを抑えられなくなっていくようだった。
「ふーん。そっか、ここに居てくれるんだあ」
「なんでい、その顔は……」
「別に?なんでもないわよお」
「言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ」
犬夜叉は、思わず詰め寄った。
かごめがまだにやにやしている。
「じゃあ言うわ。犬夜叉って、案外──」
「……やっぱりいい!」
自分で聞いておきながら、なんとなくこそばゆくて遮ってしまった。
すかさずかごめが、立ち上がりかける彼の袖をつかむ。
「犬夜叉」
「なんでいっ」
「あの……あのね。これだけ言っておきたくて」
振り向きざま、内側からにじむように、彼女の顔に屈託ない笑みが浮かんだ。
「ありがと。あんたのおかげで、元気出た」
犬夜叉は、ぐっと言葉に詰まった。
面と向かって、誰かに礼を言われたことなどなかったのである。
彼の袖の端をつかんだまま、かごめはことりと眠りに落ちてしまう。
その寝顔を、犬夜叉はまるで珍しい動物をながめるかのように、まじまじと見下ろした。
「おれのおかげで?……変なやつ」
着ている服も、食べるものも、話す言葉も、考えることも──全部がおかしな女だ。
犬夜叉は、なにやら気の抜けたような感じがして、床の上にころりと横になった。
そうして、二つの勾玉がかち合うような格好で、いつしか浅い眠りについていた。
2018.08.31
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