壊れた時計

*ハク+湯婆婆 本編後

この世界の時間は、時計台の針が指し示す時刻によって定められている。
 六日前、その時計が、ちょうど四時を過ぎたところでピタリと止まってしまった。
 針が動かなくなったその瞬間から、六日間、世界は「昼」のままであり続けている。
 夜の闇を住処とする油屋とその飲食街は、明るい太陽の下では息を潜めるしかなく、町は水を打ったような静けさに包まれている。
「このままじゃ、まずいねえ」
 苛立たしげに煙草をふかすのは、湯婆婆だ。灰皿の吸い殻は、山のようになっている。
「夜が来なけりゃ、お客様方がこっちへ渡ってこられないじゃないか。まったく、商売あがったりだよ」
「ご宿泊のお客様方からも、不満が続出しています。いつになったら向こうへ戻れるのかと……」
 ハクの報告に、湯婆婆は嘆息しながらこめかみを押さえた。神々の往来も、船の出る日没後に限られているのである。
「時計台まで行けるのは、向こうの世界に帰れる者だけだからねえ……。あたしが行けば魔法ですぐに直せるけど、それは無理な話だ」
 しばらく長い爪の先で不機嫌に机を叩いていた湯婆婆だったが、不意に妙案を思いついたという顔でハクを見た。
「いるじゃないか。あたしじゃなくても、時計台を直せるやつが」
 ハクは目を見開いた。
「私のことをおっしゃっているのでしょうか」
「他に誰がいるっていうんだい?お前、曲がりなりにもあたしの弟子だろうが」
「ですが、契約が続いている以上、まだ向こうの世界に帰れません」
「あー、じれったいね。……仕方がない」
 不承不承といった様子ではあるものの、湯婆婆は肘掛椅子から腰を上げた。
「このまま、時間が止まったままじゃ大損害だからね。お前を向こうの世界に帰れるようにしてやろう」
 彼女が書棚に向かって無造作に指を振ると、次の瞬間にはその手にハクの契約書が握られていた。
「『掟』に従って、元の世界に戻すには試練を与えなきゃならない。お前の試練は、魔法であの時計台を直すことだ。わかったかい?」
「──はい。わかりました」
 ハクはしかと頷く。が、まだ信じられないといった表情だ。
「本当に、元の世界に帰っても?」
「しつこいね。小生意気な弟子のひとりくらい、居ようが居まいがあたしは痛くもかゆくもないんだ」
 湯婆婆は窓の向こうを眺めた。数日間変わらぬ青空が、地平線まで続いている。
「わかったら、さっさと行きな」
 ハクはふっと微笑み、深々と頭を下げた。
「湯婆婆様。──今までありがとうございました」
 
 心から感謝している。
 あの魔女には。
「あなたの下で働かなければ、これほどしたたかにはなれなかったでしょう」
 愛する人と再会を約束した場所にたたずみ、竜の少年は満ち足りた笑みを浮かべる。
 すべてが計画通りだった。
 この世界の「時」を司る時計台が壊れれば、それを直すため、湯婆婆は自分を元の世界へ帰さざるを得なくなる。
 それを見越して、時計台が止まるように仕組んだのは、他ならぬハクだった。
 彼にははじめから、魔女と対立してまで契約書を奪取するつもりなど毛頭なかった。のちに禍根を残さないためにも、円満に契約を終わらせたかった。
「……これでやっと、帰れる」
 常昼の世界にひっそりとたたずむ時計台を、ハクは目を細めて眺めやる。
 ここで遠ざかっていく背を見送りながら、心に誓ったのだった。──絶対に、彼女との約束を果たしてみせると。
(会いに行くよ。千尋)
 少年はこうべを上げ、一歩先へと踏み出した。
 彼の行く手をはばむものは、もう何一つとして存在しない。




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(2018.05.17)

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