─ Seeing is believing. ─
「懐かしいな」
唐突に聞こえてきた独り言に、直は背後を振り返る。
銀杏並木の通りで立ち止まった秋山が、彼にしては珍しいことに、なにやら感慨深げに辺りを見回していた。直の視線に気付くと、黒のスラックスのポケットからおもむろに手を出して、街路の先を指し示す。
「あの角を曲がると、正門がある」
「正門?」
「ああ。ここ、俺が院まで通っていたキャンパスなんだ」
直は目を丸めた。この界隈には来たことがないので、初耳だった。
「じゃあ、秋山さんは、いつもこの道を通っていたんですか?」
「まあな」
ここに来るのは三年ぶりか、と、秋山が小首を傾げて後ろを振り返る。
初夏の心地よい日差しが、アスファルトの上に木漏れ日のきらめきを踊らせていた。街路に整然と並び立つ銀杏の木々の若葉が、青々として目にまぶしい。
「三年くらいでは、そうそう景色は変わらないな」
「まあ……そうですよね」
かける言葉を見つけかねて、直は曖昧に笑う。大学院を卒業したのち、秋山がどのような進路を辿ったのかを、彼女はよく知っている。彼にとっては苦渋に満ちた期間だっただろうその空白の三年について、深入りするのは悪いような気がした。
「秋山さん、お店はここを左に行けばいいみたいですよ」
直は携帯の画面上で地図を確認するふりをしながら、努めて明るく言った。本当はこのまま直進したほうが近いのだが、あえて帝都大学を通らない道を選ぶことにしたのである。
「そうか」
秋山はとりわけ後ろ髪をひかれる様子もなく、直の進路変更に従った。
──はずなのだが。
「秋山さん?」
信号が青に変わっても一向に動き出そうとしない彼に、直は疑問を抱く。
「あの……そろそろ赤になっちゃいますよ、秋山さん」
再三、横断歩道を渡ることを促すのだが、やはり隣の秋山はじっと立ち止まったままでいる。その視線が、何かに釘付けになっていることに気付き、直は横断歩道へと目を向けた。
歩行者用の青信号が、点滅を始めた。
ちょうど、スーツ姿の男性がひとり、向こう側から渡ってくるところだった。
歩く姿はしゃんとしているが、頭の後ろに撫でつけられた髪は白く、顔には幾重もの皴が刻まれている。七十に届くか届かないか、といったところだろうか。
直の隣で、秋山が静かにつぶやいた。
「──丘辺教授」
信号が赤に変わり、無数の車のエンジン音にその声は掻き消えたかに思えたが。
相手の男性は、呼びかけに応えるように彼の名を口にした。
「やはり、君だったか。──秋山君」
直をはさんで、丘辺教授という男性と、秋山は、互いの存在を確認し合っていた。部外者の直は、まるでテニスラリーの行方を追うように、そんな二人を交互に見つめることしかできずにいる。
歩行者用の信号が、再び青に変わった。
行き交う車の喧騒が一時的にやむと、沈黙していた教授がようやく口を開いた。
「君とこうして顔を合わせるのは、いつ以来だろうか」
そう問いかけられることを予測していたかのように、秋山は答える。
「院を卒業して以来ですから、三年になります」
「三年……か。まあ、そうだろう」
教授が頷く。その物言いに、どこか含みがあるように思えた直は、その皴の目立つ顔をじっと見つめた。──が、視線に気付いた教授と目が合うと、つい逃げるように逸らしてしまう。なんとなく、心を見透かされるようで、気が引けたのだった。
「あの……。私、お邪魔ですよね?」
直は隣の秋山に、そっと耳打ちした。おかしなことを言う、とでもいわんばかりの目で秋山が見下ろしてくる。
「今日はお前の用事で出てきたんじゃないか」
「あ、それなら大丈夫ですよ。別の日でも全然……」
「この辺りに行きたい店があるんじゃなかったっけ?」
「いや、ですから、別に今日じゃなくても──」
ちらちらと丘辺教授を見やりながら、直は口ごもる。久しぶりに顔を合わせた恩師と積もる話もあるだろうと思い、彼女なりに気を利かせているのだが、秋山には当初の予定を変更するつもりはないらしい。
「では丘辺教授、これで失礼します」
教授に会釈すると、信号が変わりかけの横断歩道を、さっさと渡って行こうとする。
「ちょっと待ってください、秋山さん」
慌てて後を追いかけようとする直の背後から、──秋山君、と教授の声がした。
「君に渡したいものがあるのだが」
横断歩道を半分ほど渡ったところで、秋山が振り返った。教授に引き留められたことが意外だったらしく、目を丸めている。
「渡したいもの、ですか?」
「生憎今は持っていないのだ。すまないが、私の研究室まで来てくれるかね?」
「──わかりました」
秋山が戻ってくると同時に、信号の色が変わり、彼の背後で慌ただしい車の往来が始まった。
教授はおもむろに、心もとない表情で信号機の傍に立ち尽くす直を振り向いた。
「君も一緒に来るといい」
「……えっ?」
「秋山君の連れの方だろう。すまないね、彼を引き留めてしまって」
「いえ、そんな……。私の方こそ、お邪魔してしまってすみません」
連れの方という表現に、直はぎこちない笑みを浮かべた。教授は秋山と彼女が特別な関係にあると誤解しているのかもしれない。そのことを彼が迷惑に思っていないだろうか、とにわかに不安になった。
「──秋山さん。私、やっぱり帰りましょうか?」
秋山の隣に追いついて耳打ちする直を、彼がちらりと流し見てきた。
「教授がああ言ってるんだ。一緒に来れば?」
「いいんですか?」
「別にいいんじゃない。俺も長居するつもりはないし」
角を曲がると、帝都大学の正門が見えた。アーチを潜り抜ければ、行き交う学生達は皆が皆、国内最高峰の頭脳を持つエリート達なのだという実感がひしひしと湧いてくる。場違いなところに放り込まれた心もとなさから、直は秋山の陰に隠れるようにしてこそこそと歩みを進めた。そのことに気付いた秋山が、訝しんで彼女を振り返る。
「どうした?」
「できるだけ、存在を目立たせないようにしてるんです」
「なんだそれ……」
秋山は慣れた様子でキャンパス内の小道を進んでいく。幾つかの建物を通り過ぎ、「人文学部」の看板が掲げられた棟にたどり着いた。蛍光灯に照らされた廊下を歩きながら、直はガラス窓越しに辺りの様子をうかがう。土曜日で講義はないものの、教室や資料室などで活発に討論を繰り広げたり、山積みの本のかたわらで課題に打ち込む学生達の姿が見られた。
丘辺教授の研究室は、四階の、給湯室の隣にあった。
勝手を知っている秋山は、研究室の前で待つよう直に言い置いて、給湯室に入っていった。ほどなくして追いついた教授が研究室の鍵を開け、中に入るよう直に促した。帝都大学教授の研究室と言うからには、書籍や資料などが隙間なく詰め込まれた本棚、様々な実験道具が所狭しと並べられた机など、雑然とした室内を想像していた直だったが、意外にも丘辺教授の研究室は閑散としている。物らしい物がなく、わずかな荷物は幾つかの段ボール箱に収まっており、まるで引き払う間際の賃貸住宅のようでもある。
パイプ椅子をすすめられ、直は教授と向き合うようにして座った。遮光カーテンは開けられており、窓から柔らかな日差しが室内に注いでいる。
「秋山君は、よくここに来たものだったよ」
直は教授を見た。教授の表情はまるで仮面を被っているかのように読みづらいものだったが、その語りかけには不思議と、彼女の心に届くものがあった。
「秋山さんは、どんな学生でしたか?」
「とても優秀な学生でね。彼は、誰よりも深く人間の心を追究しようと努力していた」
「……」
「疑問に思うことがあれば、いつも私のところに質問に来たものだ。時にはここで長時間、秋山君と議論することもあったのだよ」
直の視線が膝の上に落ちる。以前、ライアーゲーム事務局の谷村から、秋山の過去について聞かされたことがあった。詐欺師になる以前、彼は心理学を専攻するごく普通の大学院生だったのだと──。ただ、それはあくまで人づてに聞いた話であり、今の秋山とは一致することのない、いわば残像のようなものとして直の頭の片隅にとどめ置かれていた。けれど秋山が学生時代を過ごした学び舎で、こうして彼の恩師と向き合っていると、おぼろげな残像と思われた彼の過去が、急に真実味を帯びたものに感じられてくる。
「──私、秋山さんのこと、知ってるようで知らないんですよね」
「では、知りたいとは思わないのかね?」
教授の静かな問いかけを、直は自分の胸のうちで反芻させた。
「秋山さんに言われたことがあるんです。人を信じるには、まずその人を疑ってみるべきだって。そうすれば、その人のことをもっと深く知ることができるからって。──でも私、秋山さんのことは」
小さく息をつく。
「まだ、疑えずにいるのかもしれません」
隣の給湯室でドアを閉める音がした。直は反射的にパイプ椅子から腰を上げる。ノックが聞こえたかと思うと、研究室のドアが開いた。秋山が湯気の立つカップをトレイに載せて、中に入ってくる。無味乾燥とした室内に、瞬時にしてコーヒーの香りが広がった。
秋山はカップの一つを教授に手渡す。
「ありがとう。秋山君」
直にも、砂糖とミルク入りのコーヒーを渡すと、室内を眺めながら秋山が言葉を発した。
「随分と、物が減りましたね」
「ああ。やっと荷造りが済んだところなのだよ」
「荷造り?研究室を移られるのですか」
「いや。三月で定年退職したのでね」
秋山は直の隣のパイプ椅子に腰かけたが、すぐに身を乗り出した。
「定年退職?では、教授はもう……」
「ああ。教鞭を取ることはないだろう。研究は続けるつもりだがね」
コーヒーを一口飲むと、教授は息をついた。
「なかなかここが片付かなくてね。しばらく撤収できずにいたが、ようやく新任の教授に研究室を明け渡せそうだ」
それから秋山はしばらく口を閉ざしていた。教授も窓の向こうをじっと眺めるばかりで、会話を展開させる意思が感じられない。残された直は秋山が淹れた甘めのコーヒーをちびちびと飲みながら、二人の様子をうかがうことしかできずにいる。
「丘辺教授」
長い沈黙を破り、秋山が呼びかけた。彼にしては珍しいことに、その横顔がやや逡巡しているようであることに直は気付く。
「教授は、──後悔なさっていますか」
窓の外に向けられていた教授の視線が、ゆっくりと教え子のもとに戻ってくる。
「後悔、か」
「……」
「君を教えたことを、かね?」
秋山は、否定も肯定もしなかった。それはつまり、教授が問いかけの真意を言い当てたことの証明に他ならない。
「──心理学を犯罪に悪用されたと、そうお考えではありませんか」
「秋山君」
教授が静かに彼を制した。
「これだけは言っておこう。私は、決して犯罪を擁護することはできない」
「……」
「いかに情状酌量の余地があれど、詐欺は詐欺。犯罪は犯罪である。学者としても、一市民としても、私はこの考えを覆すつもりはない。──だがね」
教授の双眸が細められる。
「秋山君。私には、君の心が見えたのだよ。何が君をあのような行動に駆り立てたのか。何故そうせざるを得なかったのか。犯罪心理学の専門家として、詐欺師となった君を学問的知見から分析したのではない──。君という教え子に向き合った師として、君の心を信じ、疑い、知ろうとせずにはいられなかったのだ」
それを聞いて、秋山の緊張がわずかに緩んだように、傍らで見守る直は感じていた。
「──教授はまだ、教え子と思ってくださっているのですね」
「では、君はもう私を師とは思っていないのかね?」
まさか、と、秋山が首を横へ振る。
「丘辺教授は、最も尊敬する恩師ですから」
「……そうか」
教授は二人に背を向けると、デスクの引き出しを開けた。
「秋山君。君に渡したかったものがあるのだが、受け取ってくれるかね?」
秋山は無言で頷き、両手を差し出した。
教授が手渡したもの。──それは、大学院の修了証書だった。
「三年前、君は修了式に出なかっただろう。送付しようにも、住所を変えた後だったのか、返送されてしまったようでね──。いつか機会があれば君に渡そうと、私がずっと預かっていたのだよ」
秋山は修了証書を見下ろしながら、呟いた。
「いただいても、いいのでしょうか」
「君ほどの教え子が受け取らずに、他の誰に貰う資格があるというのかね?」
能面のような教授の顔に、初めてかすかな笑みが浮かんだ──ように直には感じられた。
それからしばらく、三人で他愛もないことを語り合い、頃合いを見て秋山が暇乞いをした。
「丘辺教授。最後にここでお会いできて、良かったです」
「ああ。私も心からそう思うよ」
「どうかこれからも、お身体にお気を付けて」
「君もな。秋山君」
かつての師と教え子は、握手を交わした。秋山の表情が心なしか普段よりも和らいで見えることが、直の心を明るくした。
「──秋山君のことだが」
秋山に続いて退出しようとする直に、教授がふと声をかけてきた。
直は後ろ髪を引かれる思いで、研究室を振り返った。
初めて会うはずの相手なのに、どうしてか初めて会った気がしないのだ。
窓辺に立っている教授の表情は、逆光で窺い知ることができない。
「君は、まだ彼のことを深く知ろうとはせずにいると言ったね」
「……はい」
「それは、どうしてかね?」
本心を打ち明けることは、そう難しくはなかった。
「だって、秋山さんは、そこまで踏み込んでほしくないかもしれないから……」
窓際のカーテンが風に揺れた。
逆光の中で、教授は首を傾げている。
「果たしてそうだろうか。──むしろ彼は、進んで君に『知ってもらおう』としているように見えるのだが」
「えっ?」
「君が思っているよりもずっと、彼は君に心を開いているということだよ。きっとここで私と向き合うことができたのも、君が側にいてくれて、心強かったからに違いない──と私は思うがね」
まさか、と直は苦笑する。
──彼に限って、そんなことはないだろう。
そう思いながらも、心の片隅に教授の言ったことを真に受けてしまいそうな部分があり、つい、廊下の少し先で待ってくれている秋山の横顔を凝視してしまう。
「私の大切な教え子のことを、よろしく頼みますよ。──神崎直さん」
気もそぞろで、一瞬、聞き流しかけた直だったが。
しっかりと、名を呼ばれたことに時間差で気付き、こぼれんばかりに目を見開いた。
「あの、どうして私の名前を──?」
研究室に戻って問い質したい衝動に駆られるが、待ちぼうけを食らっている秋山が、業を煮やしたように手招きしている。
「どうした?お前が行きたがってた店、今ならまだランチの時間に間に合うぞ」
「うっ……」
今すぐに謎を解明したいという探求心と、隠れ家レストランでランチを堪能したいという食欲、その二つが直の心の中でせめぎ合うが、結局は後者に軍配が上がった。ぐずぐずと決めかねる彼女の手を、近付いてきた秋山が何気なく握り締めたのだ。
「どうした。行かないのか?」
顔をじっと覗き込まれ、直は思わず頬を紅潮させた。
「……い、行きたいです」
「そうか。じゃあ、少し急ぐぞ」
手を引かれて小走りになりながら、直は廊下の先の研究室をちらりと振り返るが、そのドアはもう閉まっている。
(どうして私の名前を知っているんだろう。──どこかで会ったことがあったっけ?)
そんな疑問も、秋山と階段を駆け下りていくうちに、いつの間にか頭の中から消え去っていた。
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2018.05.13
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