八尋知る

(1) 果報

バスが白煙を撒いて走り去ったあとも、千尋は、しばらくその場から動けずにいた。
 郊外の山間部にあたるこの地域は、冬の降雪量が多い。街では粉雪がちらつく程度だったが、山道に差しかかるとがらりと景色が変わり、辺り一面が見渡すかぎりの白一色に覆われる。普段は雪道でも車で移動する千尋だが、今日は体調が思わしくなかったので、高校以来ぶりにバスを利用した。行きの車内では、少し胸のむかつきはあるものの、久しぶりの車窓からの眺めをのんびりと楽しむ余裕があったのだが、帰りはそうもいかなかった。
 ──このことを知らせれば、彼はどんな顔をするだろう?
 正直なところ、期待と不安が五分五分だった。だからこそ、早く知らせたいと思う反面、足がなかなか動こうとしないのだろう。
 千尋が迷っている間にも、道路にはしんしんと綿のような雪が積もっていく。時々通り過ぎていく車が雪の上に残すタイヤの跡も、あっという間に覆い隠されてしまう。
 千尋の差す傘が雪の重みで傾いできた頃、サク、とすぐ隣で雪を踏む足音がした。反射的に顔を上げた千尋は、そこに今、世界で一番会いたいようで、会いたくない相手の姿があることをみとめる。
「──おかえり、千尋」
 一瞬、つい身構えてしまう千尋だったが、ハクが気遣わしげに手を握り締めてきた時、普段と変わらないその優しさに緊張の糸がゆらいだ。そうするとつい、涙腺までもが緩んでしまい、堰切ったように目から大粒の涙がこぼれてくる。
「千尋?……どうした、何か悲しいことがあった?」
 涙でにじむハクの顔が、驚きの色を湛えていた。
 千尋は、雪で重くなった傘を手放して、その胸元に泣き濡れた顔をうずめる。
「ハク、あのね──。驚かないで、聞いてね」
 消え入るような声で、千尋はそのことを打ち明けた。まるで銀世界の中に二人取り残されたように、いっさいの音が遠退いた。
 ハクは、静かに彼女の言うことに耳を傾けていた。
 そしてしばらくすると、ほとんど聞き取れないほどの声で、ぽつりと一言尋ねてきた。
「……本当に?」
 千尋は頷いた。
 わずかに震える声で、ハクがささやく。
「ああ、千尋。私は──なんて愚かなんだろう」
 愚かという言葉の意味をはかりかねて、千尋の心臓がどくりといやな音を立てる。
 けれどすぐに、彼の真意が伝わってきた。
「こんなに嬉しいことに、今の今まで気が付かずにいたなんて──。本当に、私は救いようのない愚か者だ」
 千尋ははじかれたように顔を上げた。感極まったハクが、泣くのをこらえるかのように白い空をあおいでいる。
「喜んで、くれるの?」
「私にとって、これ以上の喜びが他にあると思う?」
「……本当に?」
「千尋」
 ハクがいつになく真剣な眼差しで千尋の目を見つめた。
「千尋。私がどれほど感謝しているか、言葉では到底伝えきれそうにない。それでも──それでも、ありがとう」
 いつにも増して、壊れものを包むような抱擁だった。その腕がかすかに震えていた。千尋は自然と笑みがこぼれて、心にわだかまっていた不安が、まるで雪解けのように消えていくのを感じた。
「次の夏には、わたしたち、お父さんとお母さんね」
 ──うん、と、喜びを隠しきれない声でハクが返事をする。
「今からもう、会える日が待ち遠しいよ」



<続>

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