光の揺籃



 その赤子は、見るからに異質だった。
 骨喰いの井戸の傍に捨てられていた子ゆえ、発見した村人達は、それが物の怪の落とし子や人の赤子に化けた妖異の類ではあるまいかと、恐れおののいた。乳飲み子の月齢であるにもかかわらず、のきひさしもない雨空の下でたった独り置き去りにされながら、泣き声の一つすらあげないのも人々をますます気味悪がらせた。それを拾ってはいけない、きっと呪いや祟りに遭うだとか、いっそのこと枯れ井戸に投げ入れてやるべきではないかという声さえ上がった。
 ただ一人、類まれなる霊力をもつ村の巫女だけが、その赤子に触れることを厭わなかった。
「まだこんなに小さいのに、独りぼっちで可哀想。いったい誰がこんなところに置いていったのかしら……?」
 どこの誰が産み落としたとも知れない赤子を、巫女は心から憐れんだ。村人達が止めるのも聞かずに、襤褸ぼろのおくるみに包まれたその子を抱き上げ、冷たい雨露に濡れた青白い頬を手巾でそっと拭いてやる。
 程なくして、どれほど村人達が騒いでいても頑なに反応を返すことのなかった赤子が、ゆっくりとその双眸をひらいた。
「こんにちは、赤ちゃん」
 巫女は目を細めて、赤子に優しく笑いかけた。
 すると赤子の瞳が、流したばかりの血のように赤々と光り、瞬きもせずに巫女を見上げた。
「か……かごめさま。やはりこの稚児ややこは、不吉の申し子なのでは?」
 異様な赤子の眼差しに恐れをなした周囲がざわめくが、巫女はまるで意に介さない。にこにこと笑いながら、揺籃ゆりかごのようにゆっくりと、赤子を揺らしてあやしている。
「大丈夫。この子は、不吉な子なんかじゃありませんよ」
「ですが、泣き声の一つもあげぬのは……」
「きっと我慢してるんだわ。──今はまだ、ね」
 巫女は結局、この天涯孤独の孤児みなしごを村に連れて帰ることにした。新婚の夫である半妖は初めこそやや難色を示したが、そこは惚れた弱みというもの。巫女がどうしてもその子の面倒を見るといってきかないので、最終的には愛する妻の意志を尊重することになった。

 卵から孵った雛鳥は、生まれて初めてその目で見たものを親と認識するという。
 少年にとっては、それが育ての親である巫女だった。
 否、厳密に言えば──
 少年はその顔を、枯れ井戸で拾われるよりもずっと前から知っていた。
「どうしたの?そんなに、じっと見るなんて」
 視線に気づいたかごめが、薬草を摘む手を止めて微笑んでくる。
 少年は何でもないと首を振り、籠の中で眠っている野兎の背中を撫でた。鷹や鳶に襲われたのか、後ろ足を怪我していたのをかごめが見つけて手当てしてやったのだ。そんなかごめの姿に、少年は懐かしい面影を見ていた。恋しいような苦しいような、嬉しいような切ないような、押し寄せる感情の波に胸のつまる思いがする。
 かごめの横顔をまたぼんやりと眺めていると、不意に後ろから声がした。
「おい。ひょっとして、腹でも減ったのか」
 振り返ると、草原に仰向けに寝転がっていた犬夜叉が、身を起こして少年を見ていた。ぶっきらぼうなように見えて、意外と面倒見のいい半妖だった。まるで本当の父親のように、無口で愛想のない少年のことを何かと気にかけている。かつての少年には、到底知る由もない顔だった。
 少年はまた、何でもないと首を振る。
 犬夜叉が、つい口走った。
「じゃあ、小便か?一人で行くのが怖いのか?」
「──犬夜叉、おすわり」
「ふぎゃっ!」
 言霊に鎮められた犬夜叉が理不尽だとわめく。だってはしたないでしょ、と指摘するかごめ。あきれたようなその表情も、けれど身内への思いやりの感じられる柔らかい声も、今の少年にはごくありふれた日常の一部で、だからこそ時折ふと不安に駆られる。
「兎の具合はどう?」
 少年の表情に影が差したのを察したかごめが、それを口実に隣に座った。離れていても感じられる清廉な霊力をより一層その身に浴びながら、少年は目を閉じる。
 与えられた名を呼ばれる度に、優しく頭を撫でられる度に、自分が何者であるかを知ればこの巫女はどのような顔をするだろうかと想像し、心が凍てつきそうになる。かごめの温かい胸に包まれるうちに、身も心もすっかり脆弱で頼りない人間の子供へと成り下がったようだ。
「あんたは赤ちゃんの時から一度も泣いたことがないから、きっと我慢強い子なのね」
 かごめは知る由もない。少年は少年として枯れ井戸に捨て置かれる前から、──あるいは邪悪な半妖として薄暗い洞穴で誕生する前から、一度も涙など流したことがないことを。
「でもね、泣きたい時は泣いたっていいのよ?」
「……」
「あんたはもう、独りじゃないんだから」
 目が合うと、微笑むかごめに肩を抱き寄せられた。かつて何度でも踏みにじろうとしたその手は、まるで少年が抱えきれぬ過去さえも抱擁して浄化するかのごとく、温かかった。
 その温かさにほだされて、少年は少しだけ、過去の糸を手繰り寄せてみる。
 ──かつて邪悪な半妖は、そうして差し伸べられる手があったこと、その手を慕わしいと感じたことさえも、洞穴の闇に置き去りにしようとした。ゆえにその手を忌避し、数多の傷をつけ、破滅に追い込むことしかできなかった。
 涙など知らなかった。
 涙を知る人々とは、永遠に相容れぬと決めつけていた。
 孤独など恐れなかった。
 孤独を恐れる人々を、心弱き者と嘲っていた。
「──言っとくけどな。ガキの痩せ我慢は、見苦しいだけだ」
 犬夜叉がぐしゃぐしゃと、少年の頭を撫でる。可愛げがないと言いながら、結局こうして世話を焼くのがこの半妖の性分だった。
「たまにはガキらしくしやがれ。大声で笑うなり、泣くなりしてみればいいんだ」
「大の大人だって、泣く時は泣くもんねー。そうでしょ?犬夜叉?」
「おれか?……おれは泣いたりしねえ」
「ふうん。この子ができたと分かった時、目を真っ赤にしてたのは誰だっけ?」
 犬夜叉の頬がにわかに紅潮する。ねえ?と、いたずらっぽく目を細めたかごめがふくらんだ腹を撫でながら少年に同意を求めた。
 少年はその現場に居合わせていたので、犬夜叉が「目にでかいゴミが入った」などという見苦しい言い訳で誤魔化そうとしていたことも、知っている。
「ほら。この子も見てたって」
「う、うるせえっ」
「だから、ね。涙には、嬉し涙だってあるのよ?」
 最後の言葉は、少年に向けられたものだった。
 いつかきっと分かる時が来る──と、託宣のように巫女が囁いた。

「おまえ、この雨風の中どこへ行くのです!?」
「……」
「ともすると、今夜が峠となるかもしれない。何が起こるか皆目見当がつきません。おまえはできるだけ、傍にいて差し上げた方が──」
 深刻な面持ちで引き留めようとする法師を振り切り、少年は身一つで外へ飛び出した。
 肌を刺すような雨は昨夜から刻一刻と強まる一方だった。荒れ狂う風に煽られた防風林の木々が、今にも根元から折れそうな勢いでしなっている。重石を乗せた住家の屋根が軋んでガタガタと心もとない物音を立てる。稀に見る悪天候に天変地異の恐怖を感じたのか、村のあちこちの厩舎で牛馬や鶏が不吉な唸り声を上げている。
 ぬかるみに足をとられた少年は派手に転んだ。法師の家から履物も履かずに出たため、小さなその足は傷だらけだった。だが少年はまるで痛みを感じなかった。焦燥が先へ先へとその足を追い立てていた。
「ここで何してやがる!」
 見慣れた赤が視界の隅を過ぎり、次の瞬間には少年の目の前に立ちはだかっていた。
「こんな時に外に出るな!風で吹き飛ばされたらどうする!」
 少年はその横をすり抜けて先を行こうとした。犬夜叉がすかさず彼の腕を掴んだ。
「おい!」
「……」
「戻れと言ってるんだ!」
 嫌だ、と少年は頑なに首を振った。その様子にただならぬものを感じたのか、どこに行くつもりなのかと犬夜叉が問い質した。
「桔梗のところに──」
 やむにやまれず、これまで一度も口にしたことのなかった名を、少年は口にした。そして相手の動揺を衝いて、今度こそその脇をすり抜けた。
 雨土にまみれた姿で、少年は長い石段を上った。
 かごめが産屋に入ってから、丸一日が過ぎようとしている。かごめの気力は尽きかけ、赤子はまだ産声を上げていないという。だが、だからといって何故、自分はあの巫女の墓へ行こうとしているのか。──少年には分からなかった。桔梗は全能の神ではなく、ただの人間の巫女だ。そしてその命を一度ならず二度までも手にかけたのは、まぎれもなく少年の過去だった存在だ。もとより加護を願う立場になどない。たとえ願ったところで、聞き届けられるはずもないというのに。
 少年は亡き巫女の墓を前にしてどうすることもできずにいる。石祠を蔑ろにして桔梗を貶めることも、墓前に膝をついて許しを乞うこともない。ただ、永遠の無がそこに眠ることを知るのみだった。そして失ったものは二度と元に戻らず、この世にはあがないきれぬ所業があるということを実感するだけだった。
「──笑うがいい」
 永遠のようでもほんの一瞬のようでもある時間をかけて、出てきた言葉だった。その声は、心もとなく揺れていた。
「愚か者と罵るがいい。……蔑むがいい」
 思うままに呪い、踏み躙り、掻き消しておきながら、縋るものを他に知らない。失うことの恐怖に打ち克つ術を他に持たない。悩める心を癒し、慰めるその清らかさ。──桔梗という、一筋の得がたき光。
 少年はその光を探し求めた。雨は一層冷たく大地に降り注ぎ、風はより強く木々に吹き付けた。深い闇が一寸先さえのみ込むかと思われた時、少年は見覚えのある場所に辿り着いた。かつて赤子の時に捨て置かれた枯れ井戸だった。
 井戸の傍には、かすかな光を帯びた花が重たげな雨露をのせて、祈りを捧げるように頭を垂れていた。
 光に導かれるように、少年はその花を摘んだ。触れてもその光は消えなかった。花を小さな手に握りしめて、少年はもと来た道を引き返した。
 心が嘘のように晴れやかになり、足は驚くほど軽く感じられた。
 氷の槍のようだった雨がしだいに上がっていく。轟音を伴う風は徐々に静まり、重く垂れこめていた雲の間には輝く星々と欠けるところのない月が浮かび上がる。
 鳥居の下では、あの赤い衣が少年を待っていた。待ちかねたというように高く跳躍し、石段を下りてくる少年の横に並ぶ。
「おい、光之助」
 少年は金の双眸を見上げる。
 闇を名に帯びた過去を掻き消すかのように、あの巫女は、闇とは対をなす名を少年に与えた。
 名もまた言霊で、不思議な力を持つのだと、巫女は言った。
 その温かい胸に抱かれれば、背信も憎悪も、後悔も悲嘆も、すべてが深い闇の底に封じ込められた。
「かごめに会いに行くぞ」
 もう待ちきれないというように、犬夜叉が少年を脇に抱える。
 少年の声がわずかに震える。
「……会えるのか?」
「ああ」
「両方、無事なのか?」
 犬夜叉が力強く頷き返してくる。
「だから、その花は直接かごめに渡してやればいい」
「……」
「あいつ、きっと泣いて喜ぶぞ」
 そうだろうか。──喜ぶだろうか、あの巫女は。
 少年は俯いた。
 手にしていた花を口元に寄せる。涙を流すかのように、花びらから雫がぽたりと滴り落ちた。





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リクエスト:「かごめ、犬夜叉、桔梗が出てくる(名前だけでも可)話」

2017.10.13
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