花嫁 - 28 - あと一息で反撃に出るところだったアシタカだが、急所を狙われていては身動きが取れない。 サンの口元から、不敵な笑みが消える。 「──貴様はまだ、私の大切な存在を傷つけようというのか?」 樹上のサンを見上げる景朗の表情も、しだいにさめた鉄のような冷ややかさをおびてくる。 「 「獣と、蛮族の男……だと?」 「姫、あなたは交わるべき相手を間違えているのです。──ですが、それは致し方のないこと。この私が、本来のあなたを取り戻して差し上げましょう」 若者の手が差し出される。 人質たちの喉元に、鋭い切先が食い込み、細い血の筋が伝い落ちる。 彼女を見上げるアシタカの目は、死を恐れていなかった。 「どうか、私の妻になると約束してください。──三の姫」 サンは目を閉じ、深く息を吸った。 そしてふたたび目を開けると、軽い身のこなしで地面に降り立った。 「……私の心は、永遠にお前のものにはならない」 「人の心は、変わるものです」 若者は目を細め、アシタカを流し見た。 「あなたが別の男に想いを寄せていても、いずれその心は離れていく。この景朗とともに過ごし、子を産み育てるうちに、きっとあなたは私に心を開いてくださるようになるでしょう」 「黙れっ」 サンの震える手に握られた小刀が、景朗の喉をとらえた。 「私の大切な存在をないがしろにし、傷つけたお前のことを、絶対に許さない……」 「許しなど、求めません」 景朗の目に強い光が宿った。若者は小刀を握るサンの手を、ぐっとつかむ。 「あなたがもののけの心の持ち主だとしても構わない。私は、姫──あなたが欲しいのです」 ──アシタカとサンの視線が交わったのは、その瞬間だった。 アシタカは後ろに大きく頭を反らし、喉元に突き立てられた槍をかわす。身体を低く落とし、横に立っていた兵の両足に回し蹴りを入れると、均衡をくずしたその兵が手にしていた刀を後ろ手でつかんだ。 ぐったりと地に伏せていた山犬は、頃合いを見計らったようにその牙を剥く。突き立てられた槍を鼻先で薙ぎ払い、獰猛な唸り声をあげながら兵士たちに襲いかかった。 「つくづく、あの者たちは私の邪魔をする」 景朗の手がサンの手を振り払い、彼女に背を向けたかと思うと、その後ろ姿はまっすぐにアシタカの方へと向かっていった。 咄嗟にサンが投げた小刀は、その耳元をかすめていく。 「──アシタカ、よけろっ!」 サンの悲鳴のような呼び声が森の中にこだました。 複数の敵を相手にしていたアシタカは、それに気づくのがわずかに遅れた。 そのわずかな隙に、彼との距離を縮めた景朗が刀を抜き、一陣の風となって斬りかかっていく。 周辺の木々から、バサバサとけたたましい羽音を立てて鴉が飛び立っていく。 「ア……アシタカ──?」 景朗の背中越しに、アシタカががっくりと片膝をつくのが見える。 サンの両脚から瞬時にして力が抜けた。 【続】 back |