赤いひと


※最終話より約300年後
犬夜叉のみ/オリキャラ視点

 御一新により、年号が改まってから、三十余年の時が流れました。
 この町が江戸と呼ばれた頃、わたしはまだ生まれていません。なので父や母が語る思い出話は、それほど前の出来事ではないはずなのに、わたしにとってはまるで遠い時代の昔話のようです。
 ああ、そうだ、昔話といえば。
 ──十年くらい前の夏、ちょっと不思議なことがありました。

 尋常小学校のお友達と、夏祭りに行った帰り道のことです。
 わたしは縁日で買った小さなほおずきの鉢をかかえて、夕暮れ時の掘割り沿いを速足で歩いていました。ほおずきは家へのおみやげで、きょうだいの中でも一番の甘えん坊だったわたしは、早く帰って母の喜ぶ顔が見たくてたまらなかったのです。
 しだれ柳が揺れる道のずっと向こうの山々から、血のように赤い夕焼けが差し込んでいました。堀から聞こえてくる舟唄の節回しをまねながら、まぶしくて俯きがちに歩いていると、突然、前から来た人に強くぶつかってしまいました。
「おいこらっ」
 いきなりの怒声に、わたしは竦みあがりました。その拍子に、大事に持っていたほおずきの鉢を落としてしまいました。
 ぶつかった相手は強面の男で、着付けがだらしなく、いかにも与太者という風情でした。射るような目で恐怖に縮むわたしを見下ろし、大きな手でむんずと肩をつかんできました。
 わたしは大声で助けを呼ぼうとしましたが、大の男が矢継ぎ早に浴びせかけてくる罵声に、喉が凍りついたように声が出せませんでした。さんざん難癖をつけられて、しまいにはどこかへ引きずられていきそうになり、全身から血の気がざあっと引いていきました。
「やめろ」
 声が割り入ったのは、苛立った男におとなしくしろと怒鳴られ、頬を張られそうになった時でした。
 男が勢いよく振り上げた手首を、誰かがその後ろからつかんでいました。
「なんだ、てめえはっ」
 男の後ろで、笑っているような声が答えました。
「言っても信じねえだろうよ」
 後のことはほんの一瞬の出来事で、わたしには何が起きたかわかりませんでした。喧嘩沙汰になるかもしれない恐ろしさに、思わず俯いて──顔を上げた時にはすでにその男は地面にのびていて、ピクリとも動きませんでした。
「なんだ。腰ぬかしたのか?」
 頼りねえな、とわたしに手を差し伸べながらぼやくその声は、ぶっきらぼうなようでいてなぜか、とても優しく聞こえたことを覚えています。
 ──そのひとは、黒い外套の下に、真っ赤な衣を着ていました。
 普段は離れたところに暮らしていて、毎年、盂蘭盆うらぼんの新月にだけ町を訪れるのだそうです。
 お盆にやってくるのは、お墓参りのため。
 けれど、どうしてそれが新月の夜なのかは、聞いても答えてくれませんでした。
 わたしの手を引いて歩きながら、そのひとは、色々な話を語り聞かせてくれました。そのどれもが、あたかも実際見聞きしたことであるかのように生き生きとしていました。
 まだ一日が二十四時間でなかった頃の話。
 人々が腰に刀を差していた頃の話。
 国と国とが合戦をしていた頃の話。
 ──人里に妖怪がいた頃の話。
「妖怪なんて、いないよ」
 話がそこまで及んだ時、わたしは、思わず口出ししていました。
「昔の人の作り話だって、先生が言ってたもん」
「作り話──か」
 彼は肯定も否定もしませんでした。ただ、これは「昔話」なのだとだけ、再三念を押しました。
「ずっと昔に戻れば、この話が本当か嘘か、確かめられるんだけどな」
 綺麗な顔を見上げながら、わたしはそのひとがいくつくらいなのかを想像しました。若い書生さんのような顔立ちなのに、落ち着いた表情が、まるでいくつもの戦場を経験した老兵のようでもあって、とても不思議でした。
 竹垣の小路を右に折れると、飴売りの小さな露店が店じまいをしていました。そのひとは白い飴細工をひとつ買って、わたしにくれました。
 飴の鳥を舐めながら、わたしはそのひとに、お墓参りはもう済んだのかたずねました。
「おまえを送ったら、行ってくる」
 その時になって、わたしは、自分の家がどこなのかをまだ話していないことに気づきました。けれど彼は、不思議なことに、わたしがどこに帰るのかが初めから分かっていたようでした。
「誰のお墓に行くの?」
 大切な女の人のお墓に行くのだと、そのひとは言いました。その目がとても和らいで見えて、わたしはほんの少し、その女性を羨ましく思ったものです。
 人力車がカラカラと音をたてて目の前を通り過ぎていきました。神社に通じる長い石の階段が見えてくると、彼はわたしの手を離しました。
「一人で歩く時は気を付けろ。何かと物騒な世の中だからな。特におまえみたいなガキは、人攫いに狙われやすい」
 はあい、とわたしは元気よく返事をしました。本当にわかってんのか、と呆れたように笑いながら、そのひとはわたしの頭を撫でました。
「階段ですっ転ぶなよ」
「うん。助けてくれてありがとう」
「わかったから、もう行け」
 わたしは笑顔で頷きました。
「さよなら、おじさん」
 そのひとはいったん背を向けましたが、なかなか歩き出そうとしませんでした。そして突然振り返ると、膝をついてわたしを強く抱き締めました。
「───、会いたい」
 誰かの名が聞こえたような気がしました。それは確かに、どこかで聞いた覚えのある響きでしたが、それが何だったかは思い出せませんでした。
 彼はわたしを離すと、もう一度だけ名残惜しそうに頭を撫でました。そして今度こそ、振り返らずに、夜の闇にまぎれていきました。
 ──翌朝、境内に出てみると、鳥居の前に真新しいほおずきの鉢がぽつんと置かれていました。

 あれから、あのひとを見たことはありません。
 二、三年くらいは、盂蘭盆の朔の夕方に町をそぞろ歩いてみたりしたものですが、影も形も見当たりませんでした。
 ただ、不思議なことに、毎年その時期になると、きまってわが家のご先祖様のお墓に、真っ赤なほおずきの花が供えられているのです。
 ──物の怪の類かもしれない、ですって?
 だとしたら、心優しい物の怪もいるものですね。



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2017.08.28
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