*ハク千 過去
川が埋め立てられることになった。
驚きは、あまりない。
この国には二万や三万もの川が存在するというから、そのうちのたったひとつが永久に失われたところで、人間にとっては取るに足らないことでしかないのだろう。
「──昔は、こんなに汚れていなかったんだよ」
幼い子どもが川べりにうずくまり、雨上がりのあとの濁った水をじっと見つめている。
聞こえてはいないだろう。
それでも、鬱屈とした気を紛らわすように、彼は子どもに話しかけつづけた。
「もっと、水が澄んでいた。浅瀬でなくても、川の底が見えるくらい。──春になればそなたのように小さな若鮎が、たくさん挨拶をしにやってきたものだよ」
汚れたものを見ていても、子どもの目はきらきらと輝いていた。
羨ましい、と彼は思う。
この人間の少女は、これからを生きるための生命力に満ち溢れている。
死を待つだけの水神には、その存在自体がまぶしかった。
「千尋、そろそろおばあちゃんのおうちに戻ろうね」
母親と思われる人間が、木陰から出てきて少女を抱き上げた。
まだここにいたいのか、子どもは手足をばたつかせてむずがったが、母親におもちゃを与えられるとおとなしくなった。
彼は水面から顔を出して、遠ざかっていくその後ろ姿を見送った。
──あの子はまた、ここへ来るだろうか?
ほんの一瞬、母親の肩越しに顔をのぞかせた少女と目が合ったような気がした。
──多分、来てくれるだろう。
しばらく雨が降らなければいい、と彼は思う。
空が曇れば、川の水はますます濁ってしまう。
あの子どもに、かつてのように澄んだ水を見てほしかった。
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(2017.08.23)
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