*ピダム ミシルの反乱後
主を失った居室は、人々から忘れ去られた廃屋のように、ひっそりと静まり返っている。
慌ただしく調度を運び出す際に、ぶつかって落としてしまったのだろうか。床の上で粉々に割れた高脚杯が、星屑のようにきらめいて見える。
彼は無言のまま、割れたガラスの欠片に手を伸ばした。
叔父いわく、母はローマガラスを好んで蒐集していたという。西域の商人がソラボルを訪れることがあれば、母は目の肥えた叔父をよく買い付けに行かせた。集めた杯をずらりとならべて、小さな鉄の棒でその縁をたたいては、繊細な音色を楽しんでいたという。
ここ、ミシル宮が閉じられることとなったのは、司量部がそのように命じたからに他ならない。
チヌン大帝の寵愛を受け、玉璽を預かる身となり、花郎徒を掌握したミシル宮主は、一時は神国そのものを手中にさえしかけた。だがその華々しい栄光は、決して史書に記録されることはなく、こうしてその痕跡を消していくことで、いずれその名は忘れ去られていくことだろう。
──皮肉なことに、ミシルという人間がこの世に存在した証が、まさに彼そのものであるのだが。
「司量部令。女王様がお呼びだそうです」
ガラスの欠片に触れた指先に切り傷ができていた。赤い血の玉を舐めとり、錆のような味にわずかに眉をひそめながらピダムは立ち上がる。
この血には、ミシルが流れている。
自分の中で、ミシルは生きている。
否定しながらも、肯定せずにはいられぬその存在。
「急ぎの用ではないとのことです」
「──いや。今すぐ伺おう」
ピダムは振り返ることなく、足早にミシル宮を出た。
門扉を閉ざした時、ふと、かすかなガラスの音色が向こう側から聞こえたような気がした。まるで彼を呼び寄せるように。──あるいは送り出すように。
血のにじむ指先を拳に握り込め、彼は仁康殿へと駆けていく。
一刻も早く、かの人のもとへ馳せ参じたかった。
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(2017.08.12)
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