いつづけ


「しま姐さんが、いつづけさんに手を焼いてるんだって」
 くすくす、と顔を寄せて湯女たちが笑う。
「白菊の間。もう、五日目になるんだってさ」
「いやだあ……」
 糠袋で肌をこすりながら、千尋は姉貴分たちの会話に聞き耳をたてている。聞かないふりをすることのほうが難しい。狭くて天井の低い従業員用の風呂場では、誰かが話していることは全部筒抜けになる。
 浴槽から立ち昇る白い湯気が、湯船につかる湯女たちをもうもうと包み込む。
 隣が髪を流し終えるのを待って、千尋はそっとたずねてみた。
「──リンさん。いつづけさんって、何?」
 濡れた髪を頭の天辺でひとつにまとめながら、姉貴分がちらりと彼女を流し見る。
「いつづけさん?ここに何日も泊まる客のことだよ」
「ふうん……」
 石鹸の匂いに包まれながら、千尋は首を傾げた。──手を焼くって、どういうことだろう。お客さまが、何か我儘を言うんだろうか。
 湯上がり後、板の間の扇風機の前で涼んでいると、配膳所の蛙男が千尋を呼んだ。
「人手が足りなくて困っとる。お膳を届けてくれぬか」
「わかりました。どこに届ければいいですか?」
 白菊のお客さまのところへ、と答えが返ってきた。相手がほんの一瞬、口元を覆う手拭いの下で意味ありげな含み笑いを浮かべたが、それに千尋が気づくことはない。
 配膳所に寄り、膳を受け取って昇降機に乗る。が、両手がふさがっていてレバーを引けないことに気づいた。
「私が引こう」
 困ったあげく一旦降りようかと思ったところで、帳場役が乗り込んでくる。思いがけず顔を合わせることのできた嬉しさから、千尋はぱっと笑顔になる。
「ありがとうございます、ハクさま」
「どういたしまして」
 昇降機の扉が閉まり、振り返ったハクが笑い返してきた。
「風呂から上がったばかり?」
「わかるの?」
「石鹸の匂いがする。髪もまだ濡れたままだ」
「さっきまで扇風機で乾かしてたの。でも、お膳を届けてほしいって」
 あっという間に昇降機が上の階についた。風邪をひかないように、と再三念を押して、ハクは吹き抜けの回廊のほうに歩いていく。
 膳にのせられた汁物が椀からこぼれないように気をつけながら、千尋は廊下の奥へと進んだ。
 金箔地に、咲き群れる菊の花が描かれた襖の向こうが白菊の間だ。
「失礼します」
 千尋は襖ごしに声をかけた。
 が、返事がない。
「すみません。お食事をお持ちしました」
 今度は少し大きな声で言ってみる。待ってみるが、やはり反応が返ってこない。
 不思議に思いながら、千尋は襖に耳を近づけた。
 ──中から妙な物音が聞こえてきた。
 ずるり、ずるり、と何かが畳の上を這う音。ざり、ざり、と畳を引っ掻くような音。すすり泣きのような、長い距離を走った後の息切れのようなおかしな声も混じっている。
 千尋は言いようのない不安に駆られて、足を竦ませた。この戸を開けないほうがいいという気がした。けれど言いつけられた仕事を全うしなければならないという責任感もあり──膳を置くと、ためらいがちに襖の引き手に手を伸ばした。
「あの……入りますね」
 意を決して開けようとしたその時、肩に誰かの手が触れた。悲鳴を飲み込んで振り返ると、今しがた別れたばかりのはずの帳場役が、心なしか固い面持ちでそこにいる。
「こちらへおいで」
「でも、お膳が……」
「そこに置いておけばいい。そなたがその戸を開けることはない」
 手を引かれ、やむをえずその場を離れる。彼はできるだけ早く、千尋をその座敷から遠ざけたいようだった。
「誰に膳を運ぶよう言いつけられた?」
 廊下を曲がってあの襖絵が見えなくなると、ハクが眉をわずかにひそめてたずねてきた。
「配膳所のひとに……」
「あの客はいけない。千尋の手に負える相手ではないのに」
「どういうこと?」
 ハクはめずらしく、言葉に迷っているようだった。
「もう五日も、ああして部屋にこもりきっている。つまり──とても欲深くて、我儘なお客さまなんだよ」
 やっぱり、と千尋は思った。いつづけさんとかいうあのお客さまは、我儘なんだ。
「しま姐さんは、大丈夫かな?あの部屋にいるって、上のお姉さまたちが言ってた」
 うん、と、煮え切らない返事がかえってくる。
「そういうことには、慣れているだろうから」
「そう……。わたしもそのうち、慣れなくちゃいけない?」
 千尋の背中に手を添えて、彼は昇降機の中に押し入れるようにした。
「ハク?」
「そういうふうにはさせないよ。──私が、絶対に」
 怖いくらいの真剣な表情だった。気圧されたように、千尋は頷くしかなかった。




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2017.08.06

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