落とした靴

 履き慣れないローファーで、いきなり坂道を走ろうとしたことがいけなかった。
「いったあ……」
 千尋は転んで擦りむいた膝に、ふうふうと息を吹きかける。アスファルトに強く擦ってしまったために、皮がむけて血がにじんでしまった。
「絆創膏、持ってたっけ?」
 涙目になりながら鞄の中をごそごそと探っていると、ふと、手元に影がおちてきた。
 顔をあげてみれば、誰かが屈んで彼女を見おろしている。
 その人の肩越しの木漏れ日がまぶしくて、千尋は手庇をつくって、じっと相手を見つめた。
「靴を落としたよ」
 相手は落ち着いた声でそう言った。しゃがんで千尋と目線の高さを合わせ、真新しいローファーの片方を、そっと差し出してくる。
「あ、すみません──」
 このグリーンヒルとちの木界隈では見かけない青年だった。千尋よりもひとつか、ふたつくらい年上だろうか。色白できれいな顔をしている。
 坂道で盛大に転ぶドジな姿を見られたことがはずかしくて、千尋は頬をほんのりと染めながら俯いた。
「その靴、なかなか履き慣れなくて……」
 言い訳めいたことを口にしてしまう。
 ふ、と相手が笑ったのがかすかな吐息の音で感じられた。
 笑われたことが気まずくて、千尋は頬をひきつらせる。
「そ、そそっかしいですよね。あはは」
「──いや。懐かしくて、微笑ましくてね」
 どこかずれた答えが返ってきた。
 千尋はきょとんとした顔で首を傾げるが、相手は静かに微笑むばかり。
 瞬きも忘れて、しばらく見つめ合ったのち、彼が長い睫毛を伏せてたずねてきた。
「痛いところは、まだある?」
「……えっ?」
 我に返って自分の膝を見た千尋は、おおきく目を見開いた。
 擦り傷が、跡形もなく消えている。
 驚いて相手を見れば、問いかけに対する答えを待っているのか、真っ直ぐに千尋を見つめていた。
「どこも、痛くないです……」
 狐につままれたような気分でこたえる。青年がほっとしたように、相好を崩す。
「よかった」
 その表情に、どこか見覚えがあるような気がして、千尋は目の前の顔から目が離せない。
 彼は千尋の片足をそっともちあげて、脱げてしまったローファーを履かせ、
「今度は落とさないように、ね」
 上目遣いに彼女を見つめながら、優しく微笑みかけてきた。



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