相反




 犬夜叉は、しばし呼吸を忘れた。
 一瞬、人違いかとも思ったが、あの巫女姿は見間違いようがない。彼の鋭敏な嗅覚も、それが間違いなくかの巫女であることを明かしている。
 巫女は、見慣れぬ村人と共にいた。ここでは見かけないので、おそらく他所の村からやってきたのだろう。見るからに貧弱そうな、いかにも気骨のなさげな、あの桔梗が心動かされることなど天地が逆転しようとあり得ないだろう、取るに足らない人間の男だった。
 その、取るに足らない人間の男に、桔梗は、──口づけを施しているのだった。
 ──何を、しているんだ?
 彼は呆然と、その光景を目の当たりにしている。
 永遠のように長い時を、桔梗は、男との接吻に費やしている。
 離れていようと、犬夜叉の目にはしかと見えている。背の高い男の唇に顔を寄せるため、彼女が爪先立ちしていることも。男の頬に添えられた白い手も。──閉じられた瞳に、長い睫毛が落とす影の濃さまでも。
 ──桔梗。
 思わず、名を呼びそうになった。あの巫女がこちらを振り向くように、喉が嗄れるほど大きな声で。
 震える拳を強く握りしめ、どうにか思いとどまった。犬夜叉はこれ以上、その光景が脳裏に焼き付くことを恐れ、決然と背を向ける。
 あの女は、──ただの巫女だ。四魂の玉を守る巫女。彼にとっては、玉の奪取をはばむ邪魔者。それ以上でも、それ以下でもない。だからあの巫女の身の上など、知ったことではない。興味も、関心も、あるはずがないというのに。
「今日は珍しく、大人しくしているのだな」
 犬夜叉は、はっと視線を落とした。禊を終えたところなのだろう、濡れ髪のままの桔梗が樹上の彼を見上げている。
 物思いにふけっている間に相当の時が経っていたらしい。辺りは既に夜のとばりが下りている。
「四魂の玉はもうあきらめたのか?今日も社に詰めていたが、来ないので拍子抜けしてしまった」
「けっ……。毎日毎日、おめーのいけすかねえ面を見るのに飽き飽きしてきたんでい」
 意図したわけではないが、突き放した物言いになる。
 柳のような桔梗の眉が、わずかに動いた。
「気のせいか。今日はやけに風当たりが強いな」
「──そんなの、いつものことだろうがっ」
 堰切ったように、犬夜叉は当たり散らした。
「忘れんなよ、桔梗。おれにとっちゃ、おまえは天敵なんだぜ?おまえがいなけりゃとっとと玉ぶん盗って、こんな村、とっくにおさらばしてるんだ。──邪魔なおまえさえいなければな!」
 こんな時にも、顔色一つ変えない桔梗がもどかしい。
 そして──天敵と呼ぶ相手にこれほど感情を剥き出しにしている自分のことが、なおのこと歯がゆくて仕方がなかった。
「てめえと慣れ合うつもりなんざ、さらさらねえんだよ!」
 桔梗の顔を直視できず、犬夜叉は彼女から目を逸らした。
 心地の悪い沈黙が場を支配する。
「慣れ合うつもりはない……か」
 ──ややあって、ようやく桔梗が一声発した。
 その声は、思いのほか柔らかく、優しげなものだった。冷ややかな拒絶を予期していただけに、犬夜叉は、心をひっくり返されたような心地になる。
「それが賢明かもしれない。慣れ合うことがなければ、たとえすれ違ったところで、お互いに傷付くこともないのだから」
 桔梗が、ふ、と微笑んだ。
 あの見知らぬ男に口づけたその唇に、犬夜叉は釘付けになる。
「桔梗。おまえは、……どうなんだ?」
 そんなことを聞くつもりはなかった。気が付けば、勝手に言葉が飛び出していた。
「誰とも、慣れ合わないのか?……誰かのせいで、傷付くことはないのか?」
「ああ、ない」
 その声は、変わらぬ平穏を保っていた。
「私は人を癒すが、人と慣れ合うことはない。だから、すれ違うことも、傷付くこともない。誰に対しても、同じように癒しの力を与えるだけ──。それ以上のことも、それ以下のこともありはしない」
 犬夜叉は、あの光景を脳裏に思い浮かべていた。
 桔梗が、見知らぬ男に、接吻していた──。
 あの口づけにも、特別な意味合いはないということか。あれはただ、人々に癒しを与える、巫女としての務めを果たしただけだというのだろうか。
「……巫女ってのは、窮屈だな」
 桔梗の目が、わずかに見開かれた。それが踏み入った発言だったと気づいた時、犬夜叉は、彼女から顔を背けたくなるようなこそばゆさを感じるが、それは決して心地の悪いものではない。
「確かに……窮屈かもしれないな。こういう生き方は」
 桔梗が目じりを下げて、笑った。
 犬夜叉は、思わず目を奪われる。
 それは彼が初めて見る、──おそらく心からの、彼女の打ち解けた表情だった。







18.02.02

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