水辺の空気がいっそう澄み渡る。
樹上の少年はくつろいだ体勢で目を閉じたまま、待ちに待った清浄な空気を肌身で感じ取っている。太い木の幹にあずけた頭からは、上質な蚕の繭をほどいたような、銀の髪がさらさらとこぼれ落ちている。
これまでの彼に、
それが近頃はどうだろう。
もうしばらく、ここから動くことができずにいる。
「──犬夜叉?」
下のほうから、若い娘の落ち着いた声がした。
少年の白い犬耳がぴくっと動く。相手が声をかけてきたことに、安堵と、喜びがじわじわとこみあげてくる。
このところ、彼はすっかり牙を抜かれていた。鉄をも引き裂く強靭な爪の持ち主でさえ、恋という名の魔物には敵わなかった。娘の気配を感じるだけで、その声を聞いただけで、かつてないほど心が安らぐのをもはや否定することはできなかった。
「起きているなら、おまえの近くに行ってもいいか?」
他愛もない会話にさえも、心が躍る。今日はどんなことを話そうかと考えるだけで、楽しくて仕方がない。
頬が緩むのを隠せぬまま、少年は下を見る。
そこには世にも美しい巫女が、川面にゆっくりと立ち昇る夜明けのように、清らかな微笑みを浮かべているのだった。
「ここまで登ってこれるのか?──手、貸してやろうか」
なんなら抱いて運んでもいい、と思う犬夜叉だが、桔梗は首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。ひとりで登れるから」
そう言うと、履いていた草鞋と足袋をぬぎ、存外慣れた様子でするすると幹を登ってくる。
呆気にとられる彼の隣に腰かけて、出会ったばかりの頃の無表情が嘘のように、巫女は屈託なく笑ってみせた。
「ほら。ひとりで登れると言っただろう?」
「……」
まじまじと見つめる犬夜叉の眼差しを知ってか知らずか、桔梗は別のほうを向いて、枝に生い茂るひときわ柔らかそうな若葉をつまんでいる。
「私がまだ幼い頃の話だ。桑の木に宿るという、蚕神に仕えたことがあった」
「蚕神?」
顔を背けたまま、巫女がうなずいた。彼女は桑の葉の葉脈にとまる青虫を見つめているのだった。青虫が恨めしかった。振り向けばいい、と少年は思う。
「だから葉を摘むために、こうしてよく木に登った。──ああ、でもそれ以外にも目的はあったな」
彼のひそかな願いを蚕神とやらが聞き入れたのか、娘が振り向いた。心から打ち解けた相手にだけ見せる、その穏やかな表情に少年はますます心くすぐられる。
「犬夜叉、しばらく目を閉じてくれないか」
「目?」
「閉じてくれたら、いいものをあげよう」
何をくれるのだろう。ひそかに胸を高鳴らせながら、忠犬のように恋人の言葉にしたがった。
「……」
かさかさ、と柔らかに葉がこすれ合う音がした。彼女の匂いがしだいに近づき、思わず生唾を飲んだ時、彼は唇に何かが押し当てられるのを感じる。
「──どんな味がする?」
甘酸っぱい、とありのままを伝えれば、そよ風のような笑い声がする。
「そうか。まだ、少し早かったな」
うっすらと目を開けてみれば、ちょうど桔梗が、赤い桑の実を口に含むところだった。噛んでみると思ったよりも酸味が強かったのか、彼女は少し目を細める。
熟していない実は、まだ食べごろではない。
意外にも、慎重なようでそそっかしく、大人びているようでまだ幼いところがあるのかもしれない。昨日まで知らなかった彼女の一面を知ることができる──だからこそ犬夜叉は、毎夜、明日が来るのが待ち遠しくてたまらないのである。
彼の心は、着実に、桔梗という花のそばに根をおろしつつあった。
「桔梗」
名を呼ぶことにさえ甘いときめきを覚える。
袖口からのぞく小さな手と、緋袴から伸びる白い裸足を傷つけてしまわないように。初恋の人を抱いて、少年は薄氷の上におりるようにそっと、地面に足をつけた。
2017.05.24