─ 待ち人 ─
この世でもっとも心地よい匂いが、鼻の先をくすぐった。
「やっぱり……また、さぼってる」
くすくす、と押し殺した笑い声。
畳の上に四肢を投げ出したまま、まどろんでいた彼はうっすらと目を開ける。
無機質な社務所の天井に、かさなる少女のいたずらめいた笑顔。
今にも顔を近づけて、その無防備な唇を奪ってしまいたい衝動を胸の内にとどめる。
「また、勝手に入ってきたな」
少女はでっぷりと太った猫で遊びながら、悪びれもなく言った。
「鍵、開いてるんだもん。神主さんっていつも不用心」
「盗られて困るものもないしな」
欠伸をしながら、彼は内心笑いたくなるのをこらえていた。
学校帰りに決まってこの神社に迷い込んでくる、小さな猫を招き入れるためにわざと施錠せずにいるんだと打ち明ければ、彼女はどういう反応を見せるだろう。
警戒されて寄り付かなくなっては困るので、そんなことは口が裂けても言わないが。
「あ、そういえば、きのううちの猫がね……」
すっかりくつろいだ格好で猫を抱き締めたまま、何も知らない少女はのんびりと日常話を語りはじめた。
彼は商売道具のお守りを並べるのに集中するふりを装いながら、視線も、耳も、心も、持てるすべてをただ一人に傾けていた。
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愛する人の喪が明けると、彼は長い時を旅に費やした。
探したところで見つかるはずがなく、ただひたすら待つことだけが与えられた唯一の道なのだということを知りながら、じっとしてはいられなかった。
かつてかごめが、満開の桜や連翹に見とれていた街道を歩いた。かごめがそうしていたように、断崖の上から田植え前の棚田の水面に映る晴れやかな青空や、茜色の夕日を見おろした。太陽を照り返して燦然と輝く海原を、帆をかかげて渡っていく船の行き先を目で追った。青々とした若葉が黄金や赤に色づく頃は、いつの日かかごめをおぶって紅葉狩りをした山をおとずれた。雪が大地を覆うと、寒さに身を寄せては抱き締め合った、遠い日々を懐かしんだ。
来る日も来る日も、人里にいても地の果てにいても、朝と夜とが交互に繰り返された。暖気と寒気が入れ替わり、四季を繰り広げた。花が咲いては散り、作物が実っては刈り取られていった。人もまた、生まれては死に、訪れては去っていった。
長い時をかけて知り得たことは、結局、とうの昔にわかりきっていた真理にほかならなかった。
かごめは──彼にとっての懐かしい過去であり、愛おしむべき現在であり、やがてまた待ちわびることになるだろう、未来そのものだ。
そして、長いこと探し続けた彼女の匂いは、単に彼が鼻先で記憶している、過去の残り香や忘れ形見にとどまらない。
彼自身の根幹をなす、もっとも深いところに刻み込まれたもの。何年、何十年、何百年という時を経ても決して薄れることのない、永遠の繋がりの証明であり、道しるべであり、絶えることのない「祈り」そのものだった。
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古びた神社の境内に、赤い夕陽が落ちる。
本殿には先客がいた。賽銭箱の前にたたずむその後ろ姿は、おごそかで、何やら近寄りがたい雰囲気を放っているようでもある。
「あの」
勇気を出して声をかけると、相手は驚いた顔をして振り返った。十くらいは年上だろうか。
「ここの神社の人ですよね。ちょっと、お参りしてもいいですか?」
「……」
言葉を失った様子でじっと見つめてくる。普段は人見知りしないたちの彼女も、さすがに気が引けてきた。
「飼い猫の安産祈願がしたいんですけど……だめですか?もう遅いようなら、明日また来ます」
相手は何も言わずに、目をそらして社務所の中に入っていった。無愛想な態度にむっとしたが、せっかく来たので、本来の目的を果たすことにする。
賽銭を投げ入れて両手をあわせると、石畳を踏む足音が聞こえてきた。先程の無愛想男が、箒を片手にこちらへ近づいてくる。
「ほら」
ぶっきらぼうな言葉とともに、何かきらりと光るものが投げて寄越された。鞄を持っていない方の手で、あわててつかみ取ってみれば、それはビー玉がぶら下がった安産祈願のお守りだった。
つい、まじまじと見つめ返してしまう。
「猫の首輪にでもつけておけ」
ありがとうございます、と礼を言えば、相手はまた目をそらした。今度は照れ隠しのように見えた。案外いい人なのかもしれない、と少女は妙な親近感を覚える。
「お守り、いくらですか?」
財布を出すと、相手が首を振った。
「ただでもらえません」
「蔵にも山ほど余ってるんだ。いいからもらっとけ」
「でも」
はした金も学生には大事だろ、と彼がこぼす。不器用な優しさが、なぜかやけに胸に響いた。
「また、お参りに来てもいいですか?」
今度は真っ直ぐに見つめ返してきた。その眼差しは冷ややかなものではなかった。彼はとても綺麗な目をしていた。突き放されるどころか、むしろ歓迎されているような気がして、嬉しくなった少女は屈託なく笑った。
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「犬みたいに、御神木の下を掘り返したりしないでね」
誰が犬でい、と眉をひそめてむつける彼。久しぶりに彼らしい表情を見せてくれたことに安堵して、つい笑ってしまう。
「ごめんごめん。でもね、あれは秘密の手紙なのよ。だからお願い、あのままにしておいて」
「……夫婦のあいだに隠し事はなし、って言ったのは誰でい」
「何十年も前の話じゃない。よく覚えてるわね」
懐かしげにはぐらかそうとすると、彼はぐっと顔を近づけてきた。
「ひょっとして、恋文か?」
「……似たようなものかもしれないわ」
「……やっぱり掘り返す」
「冗談だってば!」
急に大声を出したせいで咳が出た。彼が血相を変えて、咳き込む彼女の背中をさすってくる。
「かごめ」
「やだな、もう……捨てられた子犬みたいな顔しないで」
犬呼ばわりされても、彼にはもう吠え返す気力も噛みついてくる余力もなかった。
泣き出しそうなその顔を、両手で包みこむ。
「あんたのこと、ますます放っておけなくなるわ」
ならば離れていかずにずっと傍にいてくれ、と彼の瞳はうったえかけていた。
長く厳しい冬が大地を支配しようとしていた。吹き荒ぶ北風が山岳をうならせ、木々を枯らし、家屋の蔀戸を軋ませる。
蓮の花のように青白い顔をほころばせながら、彼女は心の中で囁いた。
──それでもどうか待っていて、と。
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風に乗って、彼女の気配が運ばれてくる。
石段を駆け上がる足音。一段ごとに濃くなる匂い。早く会いたいという胸の高鳴りも、こぼれるようなその笑顔も、まるで自分のことのように知っている。
赤い鳥居にかかる新緑の枝がそよそよと揺れている。
「犬夜叉」
そう呼ばれたかもしれないし、違う名で呼ばれたかもしれなかった。
どちらでもいい。
重要なのは、彼女がここへ帰ってきてくれたということなのだから。
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神社の猫が、足首に頬をすり寄せてきた。毎日通っているせいか、すっかり懐かれていた。
かがんで抱き上げようとすれば、彼が手を添えてくる。
「重いだろ。この猫」
ちょっと太りすぎだよね、笑いながら同意すれば、
「昔からこうなんだ」
という答えが返ってくる。
昔、という言い草が気にかかった。
「この子、いくつ?」
「さあな。野良猫だから」
「飼ってあげてるんだ。優しいね、神主さん」
彼は猫の不細工な顔をのぞき込んだかと思うと、今度は真顔でじっと彼女を見つめてきた。
「放っておけない気がするだろ。こいつ」
言われてみればそんな気もした。一目見た時から妙な愛着がある。家で飼っている猫と違って、太っていて不細工ではあるけれど。
「かわいくないけど、かわいいね。『ブヨ』」
ニャア、と彼の腕に抱かれた猫が暢気に鳴いた。
それからずっと後になって、彼が教えてくれた。
ブヨというのは、遠い昔、彼の祖父が飼っていた猫の名前なのだということを。
「じいさんも、そのおふくろも、じいさんのじいさんも、ここでたった一人の帰りを待っていたんだ」
日暮神社の鳥居を、彼と、彼女と、生まれたばかりの赤ん坊、家族三人が初めてくぐった日のことだった。
「ずっと、待ってた」
御神木の下で彼が振り返った時、それ以上は聞かなくてもわかるような気がした。
赤ん坊ごと抱き締められながら、たった一言、その耳元で彼女は囁いた。
──ただいま、と。
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17.05.14
リクエスト:「犬かご『手紙』の続編」
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